あすなろ物語

井上靖「あすなろ物語」

自分が何者にもなれないのかもしれないという現実を、人が初めて見つめるのはいつのことだろうか。

「あすは檜になろう、あすは檜になろうと一生懸命考えている木よ。でも、永久に檜にはなれないんだって!」

翌檜(あすなろ)の名は「明日は檜になろう」という言葉から来ているという。明日は何者かになろうと夢見る青年たちの姿を描く井上靖の初期の代表作。六つの短編で、少年・鮎太の成長を綴る。

「貴方は翌檜でさえもないじゃあありませんか。翌檜は、一生懸命に明日は檜になろうと思っているでしょう。貴方は何になろうとも思っていらっしゃらない」

天城山麓の小さな村で、血の繫がらない祖母に育てられた鮎太は、故郷を離れて北国の高校に通い、大学卒業後、大阪で新聞記者になる。淡々とした筆に、人生の不思議や不条理が滲む。フィクションではあるものの、主人公の少年の生い立ちなどに自伝的な色彩がある。

井上靖は伊豆・湯ケ島で戸籍上の祖母に育てられ、浜松、沼津で小中学校時代を送った。金沢の旧制四高、九州帝大、京都帝大を経て毎日新聞大阪本社に入社、学芸部の記者となった。その間に出征もしている。小説中のエピソードは創作だろうが、鮎太の経歴は概ね著者自身の半生をなぞっている。

6編それぞれに違った空気があり、一筋の物語でありながら、独立した作品の趣がある。そもそも人生というものが、短編小説の積み重ねのようなものかもしれない。

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