花のさかりは地下道で

色川武大「花のさかりは地下道で」

文章に触れ、この人のようなまなざしを持ちたいと感じる人が何人かいる。

ここ数年、色川武大の作品に強く惹かれる。雀聖・阿佐田哲也としての顔が有名だが、本名の色川で発表した作品群には、人生や社会に対する諦観が冷たさではなく、どこか温かなまなざしで綴られている。

「花のさかりは地下道で」は幼年期や戦後まもない頃の思い出を中心とした12本の短編集。表題作には、地下道で寝起きしていた頃に知り合った「アッケラ」という娼婦のことが書かれている。

小学校時代から学校に馴染めなかったという色川は、中学を中退後、博奕の世界で生き始める。しかし、世間を捨てきれず、やがて職を転々とするようになる。空襲や戦後の路上で多くの死を目の当たりにしたことも、その人生観に影響を与えているだろう。

色川武大の筆は、自ら書いてもいるように、常に過去の記憶へと戻っていく。そこには常に、こんなに劣った自分がなぜか運によって生かされている、という感覚が横たわっている。自分にしか理解できない劣等感を抱えるということは、非常に孤独なことだ。だからこそ、誰に対しても厳しい言葉遣いをしない。

色川の長編「狂人日記」には「自分は誰かとつながりたい。自分は、それこそ、人間に対する優しい感情を失いたくない」という一節がある。本作の中にも、誰かと誰かが少しでも理解しあったというような場面を見ると、滂沱の涙が流れてしまうということが書かれている。常に一歩引いた場所に立ち、孤独に身を置きながら、他者への思いも断ち切れない。

色川武大の作品は、どこか虚ろだが、その空洞の居心地は悪くない。

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