麻雀放浪記

阿佐田哲也「麻雀放浪記」

   

戦後を代表する大衆小説の一つであり、日本文学史に燦然と輝くピカレスクロマン。色川武大は好きな作家の一人だが、阿佐田哲也名義の小説は読んだことが無く、いまさらながら手に取った。

半自伝的小説で、戦後間もない頃の裏社会、というより裏も表も渾然となった社会で、今では考えられないような生き方をしていた人々のことが生き生きと描写されている。運もイカサマも全て力で、力で劣る者は負けて裸になるしかない。生きるとは戦いで、ならば博奕打ちとは最も純粋な生きざまなのかもしれない。そんなことを思わされる。自分にはそんな純粋な生き方はできないけど。

第一巻の青春編に続き、第二巻は関西編。ヒロポン中毒から立ち直り、大阪へ。ブウ麻雀など通常の半荘麻雀とは異なるルール、戦略での戦いが面白い。博奕の原則は、強気を助け弱気をくじく。後半、京都の博奕寺で和尚からバイニンまで入り交じって、本尊から瓦までかけての大勝負が圧巻。

三巻は激闘編の名の通り生死をかけた大勝負が続くが、同時に社会の変化が色濃く描かれている。戦後の混乱期は去って勤め人が徐々に増え、麻雀は普及したものの仲間内で打つようになり、博奕打ちは居場所を無くしていく。それに逆らうかのように坊や哲はカラス金まで借りて破滅的な戦いを挑む。青春編、風雲編ほどの盛り上がりは無いものの、この巻があるから文学作品としても傑作と言えるのでは。

最終巻は番外編と銘打ち、勤め人となった坊や哲は語り手に徹し、物語の中心は李億春やドサ健ら“最後のバイニン”というべき人々に移る。李は博奕を贅沢な生き方と言い、それで死ぬなら本望だと狂信的なまでに強い相手を求める。

この作品では“私”のその後は描かれていないが、著者はアウトローの世界から足を洗った後、阿佐田哲也、色川武大として小説家になる。かつての仲間たちはほとんど死に「私一人、おめおめと生きている」。生きていることに対する後ろめたさが生涯つきまとったのだろう。その上で、その生を受け入れる。

「だがね、足を洗ったために、僕はどうにか今日まで生きてこれたよ」

このシリーズで人気が高いのは1、2巻だろうけど、個人的にはバイニンとしての最後を描く3、4巻の方が印象に残った。色川武大の作品に漂う優しさがどこから来ているのか少し分かった気がする。

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