夜と霧

V.E.フランクル「夜と霧」

精神科医が自身の収容所体験を綴った本書は、二十世紀を代表する書物の一つだろう。「夜と霧」という邦題で広く知られているが、原題は「…trotzdem Ja zum Leben sagen:Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager」(それでも人生を肯定する:心理学者、強制収容所を体験する)。人が物と化す極限状態の中で、著者が専門家として、一人の人間として見聞きし、感じ、考えたことが綴られている。人生はあなたにとって無意味かもしれない。それでも、あなたが生きることは無限の意味を持つとフランクルは言う。人間は常に問われている存在だという言葉は、今なお強く胸を打つ。

収容所で人は全てを取り上げられ、数字で管理された。ガス室に送られるか、どの労働班に入れられるか、日々さまざまな選別が行われ、さらに隊列のどこに並ぶか、監視兵の機嫌がどうだったか、一瞬の運が生死を分けた。飢え、病、理不尽な暴力。極限状態の中で人は感情を奪われ、ただ生き延びることだけしか考えられなくなった。他の全ての欲が無くなった後、著者の内面に最後まで残ったのは妻への愛だったという。収容所の現実を生きながら、彼は何度も記憶の中の妻と語り合った。

絶望は、人生の意味に対する問いを被収容者に投げかけた。明日には死ぬかもしれない。ならば、苦しみだけの今日を生きる意味があるのか。著者は、最後まで他者への思いやりや人間としての尊厳を失わなかった人がいることを記録し、生の意味についての考えを深めていく。

“ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ”

“もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている”

人生が自分にとってどう価値があるのか考えるのではなく、世界から問われている者として行動する。問う立場から、問われる立場になることで、逆説的に人は精神の自由と強さを手にする。どんな状況にあっても、人が運命にどう向き合うかの自由は奪えない。

“自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ”

問いではなく、行動がその人間を規定する。どう生きるか/どう生きたかは、他の誰にも代替不可能な、かけがえのない一つの人生として残り、時には周りの人々に影響を与える。

“わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ”

本書はナチスによる強制収容の証言として読まれてきたが、人間心理に対する普遍的な考察書といった方がふさわしい。訳者あとがきにも書かれているように、著者は「ユダヤ人」という言葉をほとんど使わず、収容所の実態を細かく記録しているわけでもない。絶望の中でどう生きるかという問いこそが本書のテーマであって、だからこそ、東日本大震災後の今、再び注目を集めているのだろう。

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2002年に刊行された新装版(池田香代子訳)は、フランクル自身が改訂した1977年版を底本としており、1947年版に基づく旧訳版(霜山徳爾訳)とは内容が一部異なる。平易な訳文で中高生でも読みやすいが、カポー(監視役の囚人)やムスリム(イスラム教徒を指す言葉ではなく、収容生活で生気を失った人々)といった言葉には注釈があった方が良かったかも。

フランクルの実存思想については講演録の「それでも人生にイエスと言う」が非常に分かりやすい。

 

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