読んでいない本について堂々と語る方法

ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」

しようもないハウツー本のようなタイトルだが、教養とは何かを中心に据えた本格的なテクスト論。しかもかなり面白い。

そもそも「ある本を読んだ」というのはどういう状態を示すのか。読んだとしても記憶に残るのは一部でしかありえないし、それすらも次々と忘却の彼方に去っていく。著者はフロイトのscreen memoryの概念を借用し、我々が語ることができるのはその都度作られる幻想の書物についてだと言う。さらに世界に読み切れないほどの本がある以上、ある本を読むことはある本を読まないことと表裏一体であり、教養とは、書物を読んだかどうかではなく、書物の位置と、自分の位置を知っていることだと言う。

「教養があることは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体の中で自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである」

著者は文学研究者でありながら「ユリシーズ」を読んだことがないと公言し、それでも「ユリシーズ」と他の書物の関係はよく知っており、語るに支障はないと断言する。

さらに議論は批評とは何かに向かう。書物について語る際の「書物」が幻想であるとするなら、それは独立した創造的行為であり、芸術が現実について語るだけではないように、批評は作品についてなされるものではない。「批評の唯一にして真なる対象は、作品ではなく、自分自身なのである」。その視点に立てば、過剰な読み込みは語りから創造性を奪ってしまう。

「カラマーゾフ」や「魔の山」は内容を忘れてしまったし、プルーストやジョイスに至っては手にとったこともない。「暗夜行路」も「死霊」も読んだことがない。この本の最大の効用は、そうしたやましさがすっかり消えたこと。

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