色川武大「百」

家族との微妙な距離感を描いた短編集。「百」と「永日」は父との、「連笑」は弟との関係、「ぼくの猿 ぼくの猫」にはナルコレプシーで著者が生涯悩まされた幻覚が綴られる。博徒・阿佐田哲也としての無頼のイメージからは遠い、静かで誠実な私小説。

自分に、ここまで真っすぐ自らを見つめることができるだろうか。

「おやじ、死なないでくれ――、と私は念じた。彼のためでなく私のために。父親が死んだら、まちがいの集積であった私の過去がその色で決定してしまうような気がする」

自分にとって小説を読む意味は、物語を楽しむということより、人の屈託に触れることにある。人が自分と同じように(むしろ自分より深く)、悩んでいると知ることにある。著者の人生と自分の半生に共通項はほぼ無い。それでもその苦悩に触れると救われる。苦しむことを許されるような感覚がそこにある。

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