宮沢賢治 存在の祭りの中へ

見田宗介「宮沢賢治 存在の祭りの中へ」

宮沢賢治は牧歌的なイメージとは裏腹に、作品にもその思想にも自己否定の影が付きまとう。自己否定の先、自我からの脱却の向こうに見えた存在の豊かさ、世界の美しさ。結果的に“デクノボー”として生き抜くことはできなかったが、そこに向けて、存在の祭りの中を歩き続けた。

「近代の自我の原型が、いわば偏在する闇の中をゆく孤独な光としての自我ともいうべきものであることとは対照的に、ここでの修羅は、偏在する光の中をゆく孤独な闇としての自我である」

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