旅行記の古典。60~70年代、本書を読んで多くの若者が海を渡った。
著者は1959年にフルブライト留学生として米国に渡り、その帰途、欧州からアジアまで各地を訪れた。当時はまだ海外旅行が珍しかった時代。貧乏旅行で計22カ国を訪れた著者の記録は、同世代の若者から大きな衝撃と羨望を持って受け止められたことだろう。本書を読むと行き当たりばったりの奔放な旅のように思えるが、死後に見つかった著者のノートには、綿密な準備の跡と計画がびっしり書き込まれていたという。
今となっては、著者の旅の内容そのものに面白さはあまり無いものの、当時のインテリの若者が“世界”に触れて何を考えたかが分かって興味深い。行く先々でその土地の文化、社会に関する考察を細かく綴っており、今から半世紀以上前とは思えない鋭い観察に驚かされる。
たとえば、同じ商品、同じ音楽、同じ風景が世界を覆っていく現代の病理を米国の姿の中に見出し、同時に、米国における自由の「復元力」も指摘している。ヨーロッパでは「西洋」の衰退を感じとり、革命前のイランではその腐敗ぶりを綴る。インドでは、その絶対的な貧困から目を背けようとする自分の姿を直視する。日本と西洋、西洋とアジア、アジアと日本。その間を行き来する著者の思索の旅は決して古びていない。
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この3、4年、旅行記の名著、それも多くの若者が旅に出るきっかけとなったとされる本を少しずつ読んできた。自分も大学生の時に何かにつかれたように旅をしたが、自分の旅がどのような系譜の中に位置付けられるのかを知りたかった。
「何でも見てやろう」という徹底した外への興味から、沢木耕太郎の「深夜特急」や藤原新也の「印度放浪」に代表される自身の変化を見つめる内省的な旅。そして、そのどちらでもない軽やかな蔵前仁一や「旅行人」世代の旅人。もちろん、各世代をひとまとめにしてしまうことはできないが、それでもバックパッカーの精神が少しずつ変わってきたことが分かる。それはきっと戦後日本の国際社会における立場の変化とも無縁ではないだろう。
ただ、自分は就職して旅に出る時間を失うまで、旅行記の類いはほとんど手に取ったことがなかった。旅のきっかけになった本をあえて挙げるとするなら、「12万円で世界を歩く」(下川裕二著、1990年)で、海外旅行にはあまりお金がかからないということを知ったことくらいだろうか。旅への興味はむしろゲームや漫画、小説などで育まれた。