三好十郎「浮標(ぶい)」
三好十郎の代表作の一つで、自身の体験を書いた私戯曲。肺を患う妻と画家の夫。生活は困窮し、社会は少しずつ戦争への道を進んでいく。失うことができないものを、今まさに失おうとしている。これほど言葉の一つ一つから切実さが伝わってくる作品は無い。最後、死期の迫る妻に夫が万葉集を読み聞かせながら感情をぶつける場面は、初めて戯曲を読んで涙が滲んだ。タイトルに掲げられたブイは、茫漠とした人生の海で、波間に漂う孤独な姿にも、希望の微かな手がかりの比喩のようにも思える。
「死んだらそれつきりだと思ふからこそ此の世は楽しく、悲しく、せつない位のもつたい無い場所なんだよ。死ねば又来世が有つたり、変てこな顔をした神様がゐてくれたりすると思つたら、此の世はなんの事あ無い手習い草紙みたいなもんだ。いゝくら加減に書きつぶして置けばいゝと言ふ気にもなるんだ。」「ゆづるな、石にかじり付いても、赤つ耻を掻いても、どんなに苦しくつても、かまふ事あ無い。真暗な、なんにも無い世界に自分の身体をゆづつてたまるか」