花柳界の記憶 芸者論

岩下尚史「花柳界の記憶 芸者論」

芸者。日本文化のアイコンの一つとされながら、その実態はよく知られていない。遊女と混同されることもあるが、吉原などの廓において職掌は明確に分けられ、芸者の売色は固く禁じられてきた。新橋演舞場に勤め、東都の名妓に長年接してきた著者による本書は、古代の巫女にまで遡って芸者と遊女の本質を探る優れた日本文化論となっている。

まず冒頭に書かれているのが、芸者(京都では芸子)の様々な呼び名について。芸者を指す言葉は芸妓(げいぎ)、校書など数多くがあるが、いずれも江戸時代の戯作者や粋人が遊び心で漢詩などから用い始めたもので、それを当人たちも気取って使うようになった。色里や廓を指す言葉も花街、遊里、青楼などの言葉があるが、これらも同じで、漢文由来だから花街は「かがい」と読むのが正しく、「はなまち」は本来は誤りという。

著者は、芸者の歴史を来訪神の一夜妻となる古代の神婚の風習から説き起こす。初期の吉原においても客は神に扮し、遊女や芸者は神への饗応として客に接した。共寝までには儀礼的な様々な手順を踏むことが求められ、客もその「神婚劇」を楽しんだ。神への饗応において色と芸は不可分だった。

一方で、明治以降の花柳界は、社会の変化を如実に映し出す鏡になる。吉原の大衆化と衰退とともに、新橋が政官財界を相手に高級路線を進め、東都の中心を担うようになっていく。カフェーの普及で、花柳界と三業地は大衆化か高級化のいずれかを迫られ、結果的に大衆路線を選んだ多くの土地が消えていった。一方、色と芸を分け、高級化して社交の場として生き残った土地も、戦後、オイルショックを機に企業の接待が減少した上、政治の透明化が叫ばれるようになって政治家の利用も減り、昭和の終わりとともに急速に衰退していった。

一中節、河東節、宮薗節など芸者が現代につないだ芸能は数多い。戦前、戦中の自粛ムードの中では、花柳界でも多くの風俗が失われた。文化は余裕と無駄の中からしか生まれないし、育たない。そのことが花柳界の歴史を通じて浮き彫りになる。

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