書を捨てよ、町へ出よう

寺山修司「書を捨てよ、町へ出よう」

ここ数年、それぞれの本にも読むべき年齢があるということを感じるようになった。10代の経験が10代でしかできないように、10代の感性では、30代の今は本を読むことができない。その逆も然り。

人生の時間は一方通行で、感受性は変化すれば戻らない。高校の頃にのめり込んだ中上健次や安部公房を今初めて読んでも熱狂しないだろうし、逆に色川武大を当時読んでもあまり惹かれなかっただろう。大学時代に大きくものの見方に影響を受けた宮本常一も、まさに読むべきタイミングで読むことができたと思う。

そして年を取るにつれ、読むべきタイミングを逸したと感じる本にぶつかることが増えた。寺山修司のこのエッセイも中高生の頃に読んでいたら、強く影響を受けたかもしれない。

若者の精神的アジテーターだった著者らしい挑発的なエッセイで、ちょうど半世紀前の出版。内容は多彩だが、競馬ネタが多いのが愛嬌か。

バランス主義を嫌悪して、金銭的な一点豪華主義(生活は極貧でも車だけは高級車に乗るような)を勧め、博奕などの刹那的な生き方に心を寄せる。さらに「自殺学入門」として、外面的な理由のある自殺は他殺(社会、環境による殺人)であると言い切り、100%本人の意志で選択された自殺を称揚する。そんな自殺はほぼ無いことを考えれば、これは自殺の肯定ではなく、寺山流の叱咤だろう。太宰治の「葉」の冒頭が引用され、その印象を強めている。

「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織り込まれていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った」

寺山の美学では、その程度の理由で左右される死こそが、本当の意味で自殺と言える。それ以外の死は他殺であり、自ら選ぶには値しない。

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