大阪・天王寺の南にあった「てんのじ村」を舞台とした芸人たちの物語。かつての大阪の姿が哀歓を込めて描かれている。
てんのじ村は、現在の天王寺公園と新世界の南側にあった。いつからから芸人が自然と集まって、長屋で肩を寄せ合って暮らすようになったという
主人公のシゲルは、ふとしたことから国鉄職員の身分を捨てて芸人の道を踏み出す。巡業中に終戦を迎え、戦後も漫才師として活動を続けたが、なかなか売れることができない。相方だった妻を亡くして大阪を一時離れるが、再び戻って80歳を越えるまで舞台に立ち続けた。
終戦、食糧不足、テレビの流行、都市再開発の波、漫才ブーム……昭和史を織り込みながら、ある者は時代に翻弄され、ある者は時代から取り残されていった芸人たちの生活が描かれる。人生の不思議さを温かいまなざして見つめる名編。
「妙なものだと思う。二十一歳のとき、なに気なく遊びにきた大阪で、安来節のビラを見かけたばかりに、この道へ入ってしまった。あのとき、ビラなど目につかなければ、国鉄で定年退職を迎え、いまごろは米子の田舎で、隠居暮らしをしているかもしれない。子や孫にも恵まれていたかもしれない。本来、自分のために用意された道が、もう一本、あったのではないか。いま現在も、それは無垢なまま、残っているのではないのか。(中略)どちらがよいのか悪いのか、分からない。向こうがよいようにも思え、こちらでよかった気もする」