わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か

平田オリザ「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」

著者は、学校教育の現場や就職活動で、漠然と「コミュニケーション能力」が求められる風潮に疑問を呈しつつ、わかりあえないことを前提とした対話の基礎体力を身につける重要性を説く。コミュニケーション論というよりは、教育論というべき内容。

多様化、細分化、国際化が進んだ社会で求められるのは、「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく」こと。そこでは、「合わせる」「察する」ことよりも、最低限の社交マナーとしての対話力が必要となる。

従来、「心からわかりあう」ことこそが良いコミュニケーションとされてきた。「心からわかりあう」という言葉は、聞こえは良いが、そこには「わかりあえない人」に対する抑圧と排除の論理が働く。

「本心」を口にするのが苦手な人もいるだろう。必要なことは、わかりあえないことを受け入れる寛容さと、その上でともに歩むための知恵ではないか。口べたかどうかは、実は対話力や社交性にはあまり関係がない。

著者は「若者のコミュニケーション力が低下している」とする言説を根拠がないと一蹴し、社会や家庭環境の多様化によって、コミュニケーションの様態も多様化したことで問題が顕在化したと指摘する。空気を読むことから言葉の交換へ、歩み寄るのではなく、ともに歩むことへと意識の転換が求められている。

従来の国語教育は、正しい日本語や、正しい意思表示の手法があるとして画一的な「正解」を教えることに固執としてきた。本来、日本語の使い方においても、対話のあり方においても正解は存在しない。正解への強迫観念は、結果として、教科としての国語嫌いや、コミュニケーションに対する苦手意識を育んできたように思う。

国民国家の建設や教育水準の向上において、これまでの国語教育が間違っていたとはいえないが、既にその役目は終わっているのかもしれない。「国語」を「表現」と「ことば」(外国語を含む)に分けるべきだという著者の提唱は一考に値する。

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