著者の書く文章には、温かな諦念というようなまなざしが常に感じられる。諦念というとネガティブに聞こえるが、それは自分や他者の人生に対する肯定と一体となっている。
表題作は、五十歳の「私」が、幼い頃に通った公民館の図書室で出会った少年との思い出を振り返る。小学生の二人が交わす大阪弁の会話がほほ笑ましい。人類が滅亡した後にどうすれば生き残れるか。切なく、おかしく、どこか温かい記憶。
併録の「給水塔」は大学入学で大阪に移ってきてからの思い出を綴った自伝的エッセイ。大阪愛に溢れていて、街の匂いと、そこに息づくさまざまな人生が行間に感じられる。フィールドワークを得意とする社会学者で、エッセイの名手でもある著者の真骨頂。
記憶というものは、過ぎ去ってどこかに仕舞われているものではなく、今をともに生き、今の自分の一部を形作っている。期せずして、直前に読んだ「カンバセイション・ピース」と、作品の雰囲気は全く異なるが似た感慨を抱いた。