文章読本さん江

斎藤美奈子「文章読本さん江」

谷崎潤一郎、三島由紀夫、丸谷才一ら文豪の「文章読本」から、本田勝一の名著「日本語の作文技術」、さらにレポートや論文の書き方といった本まで、古今の文章指南書を滅多切り。口語文の誕生前後から現代まで文章術の本の系譜をたどり、国語教育の歴史にまで踏み込み、文章という表現の本質を探る。王様が裸だと喝破し、「良い文章」という目標を脱構築する。軽妙な文章だが、非常に充実した内容。

著者は文章指南書や文章講座のようなものが、男性インテリを中心とした階層を強化する装置になっていると指摘する。男女、媒体の違い、印刷言語かどうかといった区分で文章を通じて階層ができていることを解き明かし、セミナーや指南書でいじましく文章力を磨こうとする「アマチュア」の努力を奴隷根性とまでいう。

綴り方から読書感想文まで、明治以来の国語教育で学校作文は独自の発展を遂げて伝統芸能のようになってしまっている。結果的に、実際の社会で求められる伝達の文章と、学校作文の間には深刻なギャップがあり、そこを埋めるためのものとして文章術の本が求められるようになった。しかし、「文章のプロ」になることを目指すこうした本をいくら読んでも、セミナーにいくら通っても、独創的な表現者にはなれないと著者は断言する。「文章のプロ」とはプロフェッショナルではなくプロレタリアートなのだ、というのは至言。人のために、生活のために書くのがプロ。優れた表現者かどうかではない。

著者は、文章は衣服のようなもの、とシンプルに結論づける。時と場合、という選択基準はあっても、基本的には自由なものなのだ。

「ジャーナリスト系の文章読本には色気が不足していたはずである。彼らの念頭には人前に出ても恥ずかしくない服(文)のことしかない。彼らの教えに従ってたら、文章はなべてドブネズミ色した吊しのスーツみたいなもんになる。(中略)ドブネズミ・ルックに慣れた人がたまに気張って軽い文章を書こうとすると、カジュアル・フライデーに妙な格好であらわれるお父さんみたいな感じになる」

気の利いた文章を書こうとすると、自分もまさに慣れないカジュアル・スタイルになってしまう自覚はあるからドブネズミに徹しようとは思っているけど、なかなか耳が痛い指摘。

  

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