アイルランドへの旅行を前に死んでしまい、未練から浮遊霊となった72歳の男の姿を描いた表題作が面白い。
身体が壁をすり抜け、建物に自由に出入りできる一方、車や電車に乗ることができず、歩く速度でしか動けない。下心から近所の銭湯に行ってみるも同世代しかおらず、無為な日常に飽きてしまったところで、人に取り憑いて移動できることに気付く。そこから憑依を重ねるも念願のアイルランドは遠く、不思議な巡り合わせでブラジルに辿りついてしまう。
冒頭の「給水塔と亀」は川端康成賞受賞作。定年退職して故郷に帰った男の新たな日常の始まりを淡々と綴る。人の感情は孤独や幸福の一言では表せない。そのあわいを軽やかな筆で浮かび上がらせている。
その他、地獄に落ちた仲良し二人組の姿を描く「地獄」など、死や老いが中心にある作品が多いが、ほどよく力の抜けた文章とユーモアが心地良い。
著者の「ワーカーズ・ダイジェスト」のような“社会人もの”は、非常に優れた小説だとは感じつつ、フィクションの世界でまで社会人でいたくないという思いが先に立ってあまり読む気が起きないのだけど、本書の世界にはもっと浸っていたいと思わされた。