「夜更けに火が燃えつき、骨を拾うにもくらがりで見当つかず、そのまま穴のかたわらに横たわり、周囲はおびただしい蛍のむれ、だがもう清太は手にとることもせず、これやったら節子さびしないやろ、蛍がついてるもんなあ、上ったり下ったりついと横へ走ったり、もうじき蛍もおらんようになるけど、蛍と一緒に天国へいき。」
自伝的小説「ひとでなし」によると、著者は「火垂るの墓」を〆切に追われながら書き上げて以来、一度も読み返していないという。アニメ映画も本編は一度も見ておらず、宣伝用の抜粋で涙を流し、戦後唯一泣いたのがその時だったと記している。
著者自身の実体験に基づいた作品だが、細部は異なっている。著者は1945年6月の神戸空襲で家を失い、父は行方不明、母は大けがをして入院、1歳余りの義妹とともに西宮・満地谷の親戚宅に身を寄せた。義妹はその後、疎開先の福井で命を落とす。
冒頭、三宮駅構内で清太が糞尿にまみれて野垂れ死ぬ場面から、回想の中で幼い節子の骨を拾う場面まで、句点を極力廃した文章は、浄瑠璃のような調子で戦争の不条理と人間社会の矛盾を読者に突きつける。節子が衰弱していく場面は涙無くして読めないが、その涙は悲しみよりも憤りに近い。
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著者が60代の後半になってから発表した自伝的小説「ひとでなし」には、生い立ちとともに“母”に対する複雑な思いが書かれている。
生母は物心つく前に死に、神戸の養父母のもとで育った。空襲に遭い、養父は行方不明に。戦後、窃盗で少年院に入り、新潟県副知事となっていた実父に引き取られ、豊かな暮らしを得る。以来、著者は養母のことを封印し、作家として名を成してから後も空襲で亡くなったと説明してきた。
50代の終わり頃から、著者は自身の複雑な生い立ちを語り始め、「ひとでなし」と、容赦なく自分の半生を晒すようになった。生母を忘れ、養母を捨て、継母に懸想する。自身の体験をフィクションに昇華してきた作家が、自分の身を切るようにして紡ぎ出した言葉は、痛切な響きを持って、読者一人一人の抱える罪の意識をも照らし出す。