コーランには本当は何が書かれていたか?

カーラ・パワー「コーランには本当は何が書かれていたか?」

これまで訪れた土地の中でも、パキスタンやシリアといった保守的なイスラム地域こそが最も人が親切で、さらにこちらの思想や信仰にも寛容だったのはなぜかという疑問に答える一冊だった。

邦訳書にありがちな大胆なタイトルが付けられているが、原題は”If the oceans were ink”。コーランの解説書ではない。米国人ジャーナリストが、保守的なイスラム学者であるアクラム・ナドウィー師のもとに通い、コーランを学ぶ。その過程で出会った文化の相違や、さまざまな疑問を丁寧に綴っており、著者と読者が同じ道を歩くことができる優れたルポとなっている。

アクラムは女性史の研究家であり、埋もれた女性イスラム学者の存在を発掘してきた。イスラムの草創期には女性学者も多くいたという。現在のイスラム世界に蔓延する女性差別は宗教ではなく、父権主義的な中東地域の慣習に過ぎず、その多くが後世になって宗教と融合したものだと指摘する。

しかし、アクラムが欧米的な意味で“リベラル”な人物かというと、そうではない。フェミニズム教育を受けて育った著者とアクラムは何度もぶつかるし、信仰を徹底して個人の心の問題として捉え、圧政にも抗うのではなく耐える姿勢を説くアクラムの言葉は、今まさに圧政下に置かれているアラブやアフリカの人々には届かないかもしれない。

ただ女性がベールを被るかなどの問題に対し、文化・慣習と信仰を徹底して分離して考えるアクラムの姿勢は示唆に富んでいる。アクラムは、イスラムは宗教であり、アイデンティティではないと強調する。ベールを被るかどうかは文化の違いに属し、宗教の問題ではない。西洋に暮らすなら、西洋の文化に柔軟であっても信仰は貫くことができる。西洋との対立を絶対視する「原理主義者」は、信仰を追究していると言うよりは、アイデンティティを求めている。その点で、彼らは極めて西洋近代的な存在といえる。

なぜ最も保守的な地域の人々が最も親切なのか。彼らは、固有名詞としてのIslamではなくislam(神に帰依すること)を実践しているからだろう。イスラム教の誕生時、それはアイデンティティの宣言であるよりも、先行するユダヤ教徒やキリスト教徒も含めた全ての人々に対する神からのメッセージだったはずだ。

コーランはさまざまに解釈される上に、人は都合の良い部分だけを引用して物事を語る傾向にある。コーランには剣の節と呼ばれる部分があるが、融和や赦しを説く節もある。部分的な引用は慎むべきだろうが、次の章句は心に響く。

「人々よ、われらはおまえたちを男性と女性から創り、おまえたちを種族や部族となした。おまえたちが互いに知り合うためである」

シリアで知り合った人に連れられて田舎の村々(今はISの支配地域)を回った時、お祈りの時に近くに異教徒の自分がいても「ちょっと待ってて」くらいの感覚で誰も気にしなかったし、日常に宗教が溶け込んで穏やかな空気が流れていたことを思い出した。

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