杉山其日庵「浄瑠璃素人講釈」
国家主義者で、明治から昭和初期にかけて政界のフィクサーとして知られた杉山茂丸の著書。文楽の愛好家で自身も義太夫節を習っていた杉山が名人から受けた教えを細かく記したもので、上巻は「傾城冥途飛脚」や「仮名手本忠臣蔵」、下巻は「妹背山婦女庭訓」「伽羅先代萩」など。
講釈部分ははっきり言って素人には全く理解できないが、合間に綴られた名人たちとの思い出から当時の雰囲気が伝わってきてかなり面白い。昭和の伝説的名人、豊竹山城少掾が若手として出てくるだけで溜息が出る。
金でも、名誉でも、生活のためでもなく、ただただ芸を磨くためだけに一生を捧げた当時の大夫たちの姿を通じて、現代に至って芸の世界が何を失ったのか考えさせられる。杉山自身も素人とは言えかなりのレベルだったらしく、芸に対してはかなり辛口。素人の馬鹿天狗だとか、臭くもない屁を放ったと一緒とか、いちいち表現が面白い。
杉山が繰り返し語っているのが、その曲を初演ないし確立させた大夫の「風」を身につけなくてはいけないということ。それぞれの曲を語ってきた大夫の名前を挙げ、西風か東風か、さらにどの大夫の様式に従って語ればいいのかを考察している。先人が歩いてきた道をしっかりと辿るからこそ芸と呼べるという言葉は、義太夫にとどまらない芸術論といえる。
豊竹山城少掾らその後の名人の誕生を支えた偉大な一冊だが、文章は頑固親父の蘊蓄語りといった感じでかなりユーモラス。往時の斯界の雰囲気が伝わってきて、読み物としてもかなり面白い。