村上春樹「騎士団長殺し」
第1部 顕れるイデア編、第2部 遷ろうメタファー編
これを成熟とみるか、停滞とみるか。集大成ととるか、懐古趣味ととるか。評価が大きく分かれそうな印象を受けた。
妻が離れていき、社会と隔絶された孤独な環境に身を置く。やがて非日常への誘い手となる不思議な存在やミステリアスな少女が現れて……。さらに、井戸のような深い穴、得体の知れない暴力の予感、戦争の記憶、完璧で奇妙な隣人、様々な楽曲への言及など、過去の作品で繰り返されたモチーフが満載。
「神の子どもたちはみな踊る」以降、三人称を取り入れるなど、常に新しいものを書こうとする姿勢が目立っていただけに、久しぶりの一人称(「僕」ではなく「私」だけど)の文体と相まって、少し驚かされた。
前作である短編集「女のいない男たち」でも自己言及的な主人公がいたので、おそらく意識的に過去のモチーフをちりばめているのだろう(この点は、第2部の終盤でさらにはっきりする)。
文章や物語の構成は明らかにかつての作品よりも丁寧になっており(これを冗長ととる人もいるかもしれない)、初期の作品群を特徴付ける喪失感のように漠然、曖昧と書いていたものを、具体的なエピソードや物(今作では絵)を手がかりとして丁寧に積み上げていく。一方で、現実と非現実の境をいとも軽く超えていく筆致は著者ならではで、現代文学の傑作であることは疑いない。
◇
過去作と比べても場所の移動が極めて少なく、静的な印象を受けた物語は、第2部を半分過ぎたところで大きく動く。
「私」は騎士団長=イデアを殺し、メタファーの中を旅する。これ自体が著者の現実との向き合い方を示すメタファーなのだろう。私たちは生きていく上で適切なメタファーを選び取らなくてはならない。
◇
これまでの作品に無かったものを挙げるとすると、一つは「子」への執着。物語の鍵を握る免色という男も、主人公も、自分の子かもしれないという存在への執着を見せる。これは血というよりも、何かを後世に残すことへの、作家としての村上春樹自身の思いが反映されているのかもしれない。
それとともに終盤でもう一つ大きくクローズアップされているのが、平和な日常への強い志向。こちらは今作に限らず最近の作品でみられるようになった特徴だが、今回は終盤で東日本大震災への言及があるなど、かなり強く押し出されている。ここで、そこまで積み重ねられてきた過去作と共通するモチーフの位置づけが転回する。
最後に「私」は自ら家族を選び取る。一度別れた妻のもとに戻り、父親の分からない子を家族として受け入れる。これはかつての著者なら絶対に書かなかったエピローグで、新境地と言っても良いと思う。
ただこの終盤の展開は、そこまでの丁寧な物語の進め方からすれば、言葉足らずな印象も受ける。日常に戻った後を描く「第3部」を予感させる終わり方でもある。ただ、その第3部は読者の想像力に任されているのかもしれない。