川端康成の「雪国」の冒頭を、頭の固い(センスのない)国語教師が添削すると、「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」と、「そこは」を補ってしまうというような話をどこかで聞いたか、読んだことがある。表現において「正しい日本語」というのはなく、小説や詩歌は言葉の地平を広げる。
それにしても、この保坂和志の小説はすごい。
“明治通りを雑司ケ谷の方から北へ池袋に向かって歩いていると、西武百貨店の手前にある「ビックリガードの五叉路」と呼ばれているところで、私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。”
というのが冒頭の文章だが、「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた」は明らかに助詞の使い方がおかしい。そしてこれよりもっとアクロバットな文章が頻出する。
綴られるのは、幼少期の思い出、妻や不倫相手とのエピソード、猫たちの記憶。著者の小説はいつも何気ない日常描写や会話がだらだらと続き、そこに思索が挟まれる。本作は、その日常、思考が頻繁に脇道にそれ、さらに叙述の文章も「正しい日本語」からかけ離れている。
文章は平易(難しい言葉や文学的表現は一切使われていない)だが、助詞がおかしい、主語と述語が対応していない、一文の中で時制や視点が変わったり、主語がだぶっていたりする。回想の中で別の回想に入っていったと思うと、いつの間にか戻っている。それぞれの文章における現在がいつなのか、何の話をしていたのか分からなくなる。
著者の考えでは、小説とは物事や物語を説明するためのものではなく、現象そのものである。「私は篠島が歩いているのを見た」と書けばそれは「正しい日本語」ではあるが、説明になってしまう。
「人生の時間の流れに出遭いや出来事が点在するのでなく、出遭いや出来事が起きるそのつど人生の時間の流れが起こる」という一文が作中にある。
人生の時間の流れは均等ではない。振り返ってみれば場面場面の集合という印象の方が強い。人間の思考も直線的に進むのではなく、行ったり来たりしながら、頭の中で言い直したり、あとからさまざまなものを付け加えたりして展開していく。小説もあらすじが本質なのではなく、一瞬一瞬に現前するものに意味がある。
小説に対する著者の姿勢が鮮明に打ち出された作品で、短編、中編くらいなら全ての人に一読を薦めたいところだけど、上下巻計約800ページ。なかなかのボリュームで読者を選ぶ。