小説はうそをつきやすい。真顔で出鱈目を書き連ね、うそと真実の境界を無効化してしまうことができる。高橋源一郎のこの小説は、新たな日本語文学を生み出そうと苦闘した近代作家たちの姿を描きながら、そこにさも当然のような顔で現代の風俗が紛れ込んでいる奇妙な長編小説。そこでは史実と妄想の境界は曖昧になり、うそと真実が重なり合う。
登場人物は、二葉亭四迷、島崎藤村、夏目漱石、森鷗外、石川啄木ら錚々たる文豪から、山田美妙ら忘れられた作家まで。青春群像劇のような趣もある一方、夏目漱石の「こころ」を石川啄木との関係で読み解く評論や、著者自身の胃カメラの写真まで掲載したメタフィクション的な章もある。
援助交際を重ねる石川啄木や、AV監督として「蒲団」を撮る田山花袋など、悪ふざけが過ぎると怒る人もいるかもしれない。しかし、そこに描かれた作家たちの苦悩は、日本文学史におけるある瞬間の真実を間違いなく捉えている。史実に矛盾なく書かれているため、意外と日本文学史の勉強にもなるかもしれない。
小説とは何か、文学とは何か、何のために人は小説を書くのか、表現すべき人間の内面はどこにあるのか。「浮雲」「破戒」「武蔵野」――。言文一致に苦心し、自然主義を経て、明治の作家たちは日本語の表現の可能性と、表現すべき内面の探究に文字通り命を賭けた。北村透谷は命を絶ち、多くの作家が夭逝した。その積み重ねの上に現代の日本語の文章はある。