大江健三郎の手にかかれば、ただの痴漢の話が、これほどまでに文学的な色彩を帯びるのだから、すごい。
表題作は二部に分かれていて、性的に倒錯した金持ちの青年Jを中心に、前半は別荘での奔放な男女の集まり、後半は痴漢に情熱を傾ける少年と老人、Jの3人の関係が描かれる。
痴漢という行為を、死への衝動や背徳的な喜び、征服感などが混ざり合ったものとして読み解けば、確かに人間の根底を描いた小説ということができるが、そんなことは無視して、奇妙な男たちの物語として読むだけで十分面白い。
痴漢として助け合うJと老人の前に現れた少年は、痴漢を題材とした壮大な詩を書くことを夢見て、一人で破滅的な行為に走る。
「やはりわれわれにはごまかしがあったんだ。結局われわれは、あの少年のように危険な痴漢になるか、痴漢であることを止めるか、そのどちらかしか道がないという気がするんだ」
「きみは痴漢であることを止めるだろう。わたしはもっと危険な痴漢になるだろう」
こうした台詞は、文面だけ見ればコントのようだが、人間存在の本質を浮かび上がらせるかのような重厚な響きがある。
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併録の「セブンティーン」は、過剰な自意識を抱える17歳の少年の内面を綴った小説。「共同生活」は、部屋に猿が住み着いていると信じる青年の日常を通じて、見る/見られるという関係の緊張や、現代社会の孤独を描く。
どちらも印象的な短編だが、特に「セブンティーン」は、他者の目を気にする脆弱な精神が右翼思想を拠り所としていくさまを描いて、発表から半世紀以上経った現代にも鋭く問題を突きつけてくる。
右派左派関係なく、排外主義でも、自己責任論でも、何かの思想を過度に主張する人間は、内容に共感していると言うより、それを脆弱な自己を守る鎧として使用していることが多い。
主人公の少年は、浅沼稲治郎暗殺事件の山口二矢をモデルにしており、後編にあたる「政治少年死す」は右翼の圧力などから単行本には未収録となっている(ネットで探せば読める)。