蒼煌

黒川博行「蒼煌」

日本芸術院の新会員選挙を巡る熾烈な買収合戦を描く。現会員が新会員を選ぶという仕組みから絶対的な上下関係が生まれ、画家と画商、政治家の思惑が入り乱れ、億を超える金が動く。物語としては特段面白いものではないが、描かれている世界があまりに衝撃的で引き込まれる。
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父と暮せば

井上ひさし「父と暮せば」

原爆投下後の広島。娘の幸せを願う父の亡霊と、幸せになってはならないと自分を責める娘。随所にちりばめられた井上ひさしらしいユーモアがとにかく切ない。それでも、幻とはいえ、幸せを祈ってくれる父の姿を思い描くことが出来た娘は幸せだったのだろう。

「あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ。おまいの勤めとる図書館もそよなことを伝えるところじゃないんか」

「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが」

語り伝えるという井上ひさしの決意が全面に打ち出された作品。

たそがれ清兵衛

藤沢周平「たそがれ清兵衛」

病に伏せる妻と暮らす「たそがれ清兵衛」ほか、8人の剣士を描いた短編集。どれも短い中にドラマと魅力的な人物が詰まった名品。

ただ、藩のごたごたの中、冴えないと思われていた人物が実は達人で……という構造がすべて同じで、続けて読むとちょっと食傷気味。

城勤めの剣士たちが主人公で、時代物とはいえ、現代に通じる苦悩がある。まさに、「せまじきものは宮仕え」。

太鼓たたいて笛ふいて

井上ひさし「太鼓たたいて笛ふいて」

『放浪記』で知られる作家、林芙美子の後半生を描いた評伝戯曲。

プロデューサー三木孝が囁く「戦争は儲かる」。

従軍文士として「わたしは兵隊さんが好きです。国家の運命という大きな物語に、兵隊さんたちはお一人お一人の物語を捧げてくださっている」と“太鼓たたいて笛ふいて”戦意昂揚に尽くした林芙美子は、戦地を回るうちに敗戦を悟り「非国民」になる。

「滅びるにはこの日本、あまりに美しすぎる」と三木らを前に“非国民の愛国心”を歌う場面は胸を打つ。

物語を作るはずが、国や国民の求めた「物語」に踊らされた作家は戦後、急逝するまでの6年間、「物語」を捨てて庶民の悲しみを書き続けた。井上ひさしは評伝劇を書くのが本当に上手い。舞台を見逃したことが悔やまれる傑作。

十六夜橋

石牟礼道子「十六夜橋」

不知火海のほとりに生きる土建業の一族を描いた小説だが、物語ではなく、土地の記憶のようなものを書いている。石牟礼道子の自伝的作品の一つと言え、この作では志乃として登場する盲目の狂女、祖母おもかさまの見ていた世界をどうにか捉えようとする試みに思える。

文章の視点が定まらないことに由来するのかもしれないが、読んでいるうちに作者の存在が消え、ただそこに人々が存在しているような錯覚に陥る。

『苦海浄土』について自らが述べたように、この作品も著者にとって「自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」なのかもしれない。ただ生きる人々の営みがどんな神話よりも豊かな広がりと存在感を持って迫ってくる。

中上健次の作品を連想するが、中上よりも作者の作為が感じられない。中上作品に出会ったのと同じ高校生くらいの時に読んでみたかった。

反劇的人間

安部公房、ドナルド・キーン「反劇的人間」

安部公房とドナルド・キーンの対談。40年近く前の対談だが、「日本人論」の流行に疑問を呈するところから始まり、古さは感じない。あまりまとまりのない内容だけど、所々に非常に鋭いやりとりがある。

安部の「人間の個性というものを信じない」という言葉や、特殊から普遍に至るという小説手法への疑問、『ゴドーを待ちながら』を例に挙げて物語よりも「時間」の存在を示されることが人間にとって一番心に響くという指摘など、なるほどと思わされた。

文学論では、安部が人物造形などから川端康成の作品を西洋的と感じると語る一方、キーンは逆に、文章や会話、物語の構造などから谷崎の方が西洋的と指摘するのも、それぞれの感性の違いが分かって面白い。

アジア新聞屋台村

高野秀行「アジア新聞屋台村」

在日外国人向けのミニコミ紙を発行する小さな新聞社を舞台とした自伝的小説。

多様な人が集まり、好き勝手に仕事をしている屋台村のような空間。一人ひとりが自分のために生きることが、不思議な調和を生んでいる。酒飲み書店員大賞に輝いた傑作「ワセダ三畳青春記」の続編のような内容だが、読み心地はよりルポっぽい。すいすい面白く読めてしまったが、ふと、自分はいま好きなことをしているだろうか、と思わされた。

手鎖心中

井上ひさし「手鎖心中」

言葉遊びの得意な井上ひさしらしい軽妙な時代小説。大店の若旦那が戯作者目指して自ら手鎖の刑を望み、心中事件を起こす表題作と、もう一篇。ドタバタを通じて、どこか現代を生きる自分自身を顧みさせられるのがこの人らしい。近世の戯作者の姿を通じて、現代の物書きの覚悟を問うているようにも思える。

阿修羅ガール

舞城王太郎「阿修羅ガール」

純文学がライトノベルを真似して書いてみた、という印象。かるーい女子高生風の口調でこれだけの分量を書ききる力量は相当なものだが、読み進めるのはちょっとしんどい。思索的な部分が多く、それが文体に合わせて狙っているのだろうが、まさに中高生レベル。性や暴力など表面的にはかなり過激な描写が続くのに、読んでいて平坦な印象を受ける。