どれも著者自身を思わせる一人称の人物が語り手。久しぶりの一人称で書かれた前作長編「騎士団長殺し」がセルフパロディのような要素をたくさん盛り込みつつ、以前の作品とは決定的に違う手触りになっていたように、短編も一周回って別の場所にたどり着いたような著者の今を感じさせる。
個人的には「ねじまき鳥クロニクル」までの作品が好きだが、変わらない人も作家もつまらない。この短編集を含め、近年の作品、文章に通じるのは、「今」へのまなざし。過去を踏まえた上で現在を見る。生きている以上、「今」から逃れることはできない、という覚悟のようなものを感じる(覚悟というほど大げさなものではなく、認識といったほうが近いかもしれない)。
チャーリー・パーカーが1960年代まで生きて、ボサノヴァを演奏していたら、という架空のレコード評を巡る「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」、存在しない著書について綴った「ヤクルト・スワローズ詩集」、人の名前を盗む「品川猿の告白」あたりは、とても著者らしい作品で、ファンなら必読。