古文書返却の旅―戦後史学史の一齣

網野善彦「古文書返却の旅―戦後史学史の一齣」

戦後まもなく、水産庁の研究所で、全国の漁村に残る古文書を集めようという壮大なプロジェクトがあった。日本常民文化研究所に委託されて始まったその事業は結果的に打ち切りとなり、日本各地から収集された膨大な文書が後に残された。

著者はその後始末を通じて、網野史学とも呼ばれる新たな歴史認識を築き上げた。三十年以上も未返却となっていた文書を頭を下げながら返却して回り、その過程で襖の下張文書などから新たな史料を見出し、日本史の常識を疑い始めた。

能登・時国家文書の返却と再調査、そこから得た知見についてのくだりは本書の白眉だろう。著者の他の本でも繰り返し書かれている内容だが、豪農と捉えられていた時国家が廻船から鉱山まで幅広く営んでいたことが分かり、そこから、百姓=農民、水呑=貧農・小作人という定義が根本的に誤っていたことが明らかになる。水呑百姓の中には農地を持たない商人も含まれ、農地所有の有無のみで区分された当時の統計からは、多角的な生業を持つ実際の暮らしは浮かび上がってこない。日本は百姓中心の国だったが、それは農民中心の国だったことを意味しない。農耕中心の歴史観では農地の少ない奥能登は貧しい土地と考えられてきたが、実際は海運などで豊かな都市的な性格を持っていた。

民俗学、歴史研究の手法についての教訓に富んだ書(宮本常一・安渓遊地「調査されるという迷惑」とともに読むべし)だが、同時に、近世以前の日本社会の多様性が明らかになっていく過程が綴られた、歴史学の歴史についての貴重な記録でもある。

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