衝撃的な内容だ。それは題材がセンセーショナルだからではなく、人間関係における本質的な部分を問うているから。種を越えた性愛を通じて、誰かと対等な関係を結ぶとはどういうことかを考えさせられる。
著者は「ズー」と自称する動物性愛者たちを訪ね歩く。ズーは獣姦愛好者(ビースティ)とは違い、動物を欲望の対象ではなく、対等な関係を結ぶパートナーとして扱う。動物をペットや家畜のような保護すべき対象ではなく、「人間と対等で、人間と同じようにパーソナリティを持ち、セックスの欲望も持ついきもの」として捉える。その上で、動物の“誘い”があれば、マスターベーションを手伝い、時に体で交わることもある(本書で取り上げられているズーは一般的な獣姦のイメージと違い、オス犬を人間が受け入れるというケースが多い)。
動物が人間に対して欲情したり、誘ったりするはずがない。反射的にそう思ったが、オス犬の極部が人間に対して反応しているのを見たことがあるし、実は種を超えた性的好意が存在しないと考える方が不自然かもしれない。神話や原始絵画などに描かれているように、宗教・道徳的価値観が発達する以前は、人間と動物の種の垣根はもっと低かったのではないかという気もする。
動物と人間が対等な性愛関係を結べるのかという疑問は同時に、人間同士でも対等な性愛関係がどれほどあるかという問題を突きつけてくる。動物と意思の疎通が図れているというのは思い込みではないか――人間同士の関係は違うと言えるのか。
ズーはビースティ(獣姦愛好者)やペドフィリアのような性的倒錯と混同・同一視されることが多い。明らかに対等の立場ではない小児を対象とするペドフィリアと、人間より下位のものとして動物を扱うビースティは欲望のあり方として共通する部分があるが、ズーは対等であることにこだわり、成人として動物を扱う。その一点においては、動物を“子ども”視して可愛がる一般的なペット愛好家の方が、ズーよりも彼らに近い感覚を持っているといえるかもしれない。
ペットを去勢し、去勢しなくても性的欲望を持たない子どものように扱う。その善悪は別として、少なくともそれは対等な関係ではない。動物の性を無視していいのかという問題は無視できない重さを持っている。著者自身もズーとの日々を通じて、次にペットを飼う時に動物にどう接していいか分からなくなったと悩む。
対等であろうとする関係と、対等でないことを前提とし欲望や抑圧が介在する関係。人間同士だから無条件に対等ではない。むしろ対等ではない関係が世の中にはあふれている。ズーたちの姿は、私たち一人一人の人間関係のあり方についても再考を迫る。
本書は自身も性暴力を受けた経験のある著者自身の悩み、思考の記録であり、要約は難しい。それどころか要約を通じて触れれば本質を見誤る可能性もある。決して、極端な事象を取材した過激なルポというような内容ではない。