安部公房「壁」

2009年秋から今は無きソーシャルライブラリーで記録を付け始め(11年からは読書メーター)、以降いつ何を読んだかがはっきり分かる。この本はちょうど10年ぶりの再読。たしか高校生の時に初めて読んだ安部公房の作品もこの本だった(「砂の女」だったかも)。

好きな作家は何人もいるけど、高校生の頃にのめり込んだ安部公房と中上健次は、理由が自分でもよく分からない。その後にはまった宮本常一も石牟礼道子も色川武大もどこに惹かれたか説明できるけど、対照的なこの2人に関しては、わけもなく惹きつけられたとしか表現できない。

表題作の「S・カルマ氏の犯罪」は、自分の名前を忘れた「ぼく」の物語。「ぼく」が職場に行くと、自分の席に名刺が座ってタイピストのY子と話していた――という発端から、次々と奇妙な人物が現れ、「ぼく」の日常ははるか遠くへと旅していく。

改めて読むとわけがわからない。実存がどうのこうのと解釈したり、別の言葉で説明しようとしたりするとたしかに難解な作家、作品だと思う。ただ当時はわけがわからないと感じることもなく、解釈もしようとも思わず、奇妙な物語がそのまま面白かった。

安部公房の主人公は優柔不断で陰気なキャラクターが多いが、どこか乾いていて、日本の小説につきものの湿っぽさがない。かといって作りものの印象はなく、非常にリアルな存在感を持っている。大陸(満州)や砂漠のイメージで語られることがあるが、ここにに描かれているのはまぎれもなく日本と日本人の姿だとも。今読んでも先鋭的に感じられる希有な作家。

ところで、安部公房の作品はなぜ電子化されないのだろう。いち早くワープロを執筆に取り入れた作家だとどこかで読んだことがあるけど、読書体験としても電子媒体と相性が悪い作家だとは思えない。電子版全集を出してほしい。

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