魯肉飯はロバプンと読む。「ルーローハン」ではなく、台湾語の響きをタイトルに冠した本作は、台湾ルーツの二人の女性――母と娘の物語。
この社会には「ふつう」という言葉のもとに“ささいな”抑圧が日常の隅々にまで満ちあふれている。
娘の物語では、想像力の欠如したプレイボーイの夫との関係が軸となる。一人の人として扱われないことへの焦燥。傍から見れば恵まれているかもしれないが、自分が消えていく人生に意味があるのか。
寛大なようで(自分でも自分をそう思っていて)実際は自己中心的。生活の面倒をみるのが男の甲斐性だと信じ、相手の人生や内面に自分に対するのと同等の想像力を働かせない。浮気を些細なことと言い、お前が一番なのになぜ分からないのだと責任転嫁する。人徳者の父とともに人物造形が類型的(物語に都合よすぎ)という気もするが、実際にこういう人は少なくない。
夫を父権的、植民地支配のメタファー的に読むこともできるし、アイデンティティを巡る物語と捉えることも可能だろうけど、むしろもっとシンプルに、人と人がいかにともに歩むかを描いた物語だと感じた。だからこそ、立場や境遇を超えて響く。
人間関係において最も大切なことの一つは、相手に興味を持ち、理解しようという姿勢があるかどうかなのだ。誰か/何かを自分の添えもの程度にしか思わず、自分を変えるつもりがない人、理解しようという姿勢がない人とは一緒に歩むことはできない。