日本語のために 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集30

池澤夏樹=個人編集 日本文学全集30
日本語のために

日本語は世界的に見ても非常に多様な表現形態を持っている。

池澤夏樹選の日本文学全集30巻は、文体のサンプル集とでも言うべき内容。祝詞や経文、漢詩から、琉歌(琉球語の定型詩)や、アイヌ語の文章まで。聖書の翻訳や、ハムレットの独白もそれぞれ6種類収録され、日本語の幅の広さがよく分かる。

たとえば、最初に収録されている祝詞の六月晦大祓(みなづきのつごもりのおおはらへ)の冒頭。
「集(うごな)はり侍る親王(みこたち)諸王(おほきみたち)諸臣(まへつきみたち)百の官の人等(もものつかさのひとども)諸聞き食(もろもろききたま)へよと宣ふ」

般若心経の冒頭。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」

終戦の詔書。
「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲に忠良なる爾臣民に告ぐ」

さらにマタイ福音書から最後の晩餐の場面を2パターン。
「イエス、パンをとり、祝してさき、弟子たちに与へて言い給ふ『取りて食らへ、これは我が体なり』」(文語訳)
「ヤソァパン取って、神様ァどごォ讃える祈りィ捧げ、割ァで、弟子等さ分げで呉ながら語りやった。『取って食いなれ。これァ、俺ァ、体だ』」(ケセン語=気仙地方の言葉)

これだけで、一つの言語の表記法とは思えない幅がある。
原文に加えて、それぞれに現代語訳も収録されており、読み物としても十分楽しめる。伊藤比呂美による般若心経の現代語訳や、終戦の詔書の高橋源一郎訳も必読。どちらも胸を打つ。

さらに戦後の現代仮名遣い制定前後の論考も幾つか収録されており、こちらも興味深い。

現代仮名遣いで育った身には、それが自然なもののように思えるが、実際には「は」と「わ」、「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」など曖昧なルールが残っており、これは表音に従った自然な表記と言うよりは、制定者の恣意に他ならない。福田恒存の「私の國語教室」はこうした現代仮名遣いの欺瞞を告発し、旧仮名遣いの正当性を説く。

かつて、日本語をローマ字化しようという運動があったことを今の我々は笑うが、現代仮名遣いや常用漢字の制定、現代の国語教育も大なり小なり似たような発想がもとになっている。しかも不徹底。現代仮名遣いと常用漢字を定めたことによって、日本語表現の一部が失われてしまったのは間違いがない。

教育の場では正しい日本語よりも、まず日本語の表現の多様性を教えるべきだろう。その上で、必要な人にはここに収められている大野晋の「日本語練習帳」に書かれているような、読みやすい文章のテクニックを教えれば良い。

このほか、丸谷才一の「文章論的憲法論」や鶴見俊輔の日本語に対する考察も興味深い。丸谷は、日本語は物事を的確に伝えるための散文が未発達だという。その観点から、日本国憲法は出来損ないの翻訳だが、何を伝えたいか分からない雰囲気だけの大日本帝国憲法に比べれば遥かにマシと喝破する。

全集の一冊では惜しい。流し読みで良い。多くの人に手にとってもらいたい仕事。

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