不老不死の遺伝子が発見され、極端に格差が広がった22世紀の社会。最上層の人々のみがその遺伝子の恩恵を受け、最下層の人々は隔離された出島で暮らしている。15歳の少年が島を出て各地を旅する様子をロードムービーのようにつづっていく。
あえて選択したのだろう、徹底的に内省を排除した描写の連続は、極端に映像的。この手法でこれだけのボリュームを書ききる筆力に圧倒されたが、読み進めるのには苦労した。
漫画やゲームのようなディストピア的な世界設定は、愉悦的と言えるほど細部まで饒舌に過剰に作り込まれている。ただ、映画などのCGが発達した今、こうした物語を小説で読む喜びは個人的にはあまり感じない。70~80年代に発表された作品ならディストピアものの金字塔と言われたかもしれないが、90年代半ばに中高生だった身としては、どことなく懐かしい印象のほうが強い(この作品は2010年刊)。
ここに描かれている格差社会も、移民の反乱も、人々の価値観を変化させたという「文化経済効率化運動」も、発想としては極めて二十世紀的で、ここまで極端なSF的設定を用いなければ書けないものとは思えない。何より、ディストピアはこんなにあからさまには訪れないというのが、二十一世紀の今感じる恐ろしさだろう。来るべきディストピアは、もっと普通の顔をしているのではないか。
ただ最後の場面を読んで、著者がなぜこうした世界観で、徹底して“移動”にこだわった小説を書いたのが明らかになった。
人間は他者と関わることでしか生きていくことができない。政治的な作為で多様性を排除することは、突き詰めれば、この小説に描かれている未来のような醜悪な社会をもたらす。そのために我々は移動することをやめてはならないし、他者と出会い続けなくてはいけない。
同じ15歳の少年の旅をテーマにして、村上春樹は、ある種の内向性を持った「海辺のカフカ」(2002年)に至り、村上龍はこれほど人間の“外部”にこだわった作品を書いたというのが興味深い。