小説の自由

保坂和志「小説の自由」

小説をどう書くか、小説をどう読むか、そもそも小説とは何か、という問いを巡る文章は古今東西繰り返し綴られてきた。著者の小説を読んだことがあれば、そもそも論旨明快な小説論を期待して本書を手に取ることはないだろうが、完成された評論というより思考の記録といったほうが近い。つまり、ひと言ではまとめられない。

著者は小説を視線の運動、感覚の運動を文字によって作り出すものと定義し、小説とは読んでいる時間の中にしかないと書く。読んでいる時に現前するものが小説の本質であり、それは要約できるような物語でも、解釈するための素材でもない。

三島由紀夫の小説の「私の濃度」の濃さを指摘している箇所を読んで、自分が三島の文章に(素晴らしいとは思いつつ)いまいち入っていけない理由が分かった気がした。内面描写だけでなく、風景描写の一つ一つにまで「私」がにじんでいて、読み手も語り手や作者から逃れられない。

著者は精緻な構築物として小説を読み、書くことに否定的な立場を取る。タイトルの「自由」は文体、構成などのテクニカルな面での自由というより、もっと本質的な意味での自由――作者の想像力や語り手の視点からすら自由であるもの、自由であろうとするものが小説だということを表している、気がする。

もともと雑誌に連載された文章で「小説の誕生」、「小説、世界の奏でる音楽」へと著者の小説を巡る考察は続く。

 

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