運命の子 トリソミー

松永正訓 「運命の子 トリソミー: 短命という定めの男の子を授かった家族の物語」

悲しみや苦しみは幸せの対義語と考えてしまいがちだが、それは比べられるものではなく、悲しみや苦しみと同時に幸せは存在しうるということを思わされた。喜びとつらさのどちらが大きいかという比較も意味がない。

著者は小児外科医。13、18トリソミーの子は心臓の奇形や脳の発達障害で通常数ヶ月しか生きられず、医療の現場では延命に繫がるような治療を施さないことが常識だった。そうした価値観の下で経験を積んできた著者は、開業医となってから地元主治医として13トリソミーの「朝陽君」と出会う。重症心身障害児の朝陽君の姿やその家族との対話を通じて、短命という宿命や障害の意味について考え始める。障害児を抱える他の家族や、子が誕生死した母親への聞き取りなどにも出向き、著者自身の思索の日々をまとめた誠実な一冊。

朝陽君は目も見えなければ、耳も聞こえない。口唇口蓋裂があり、寝たきりで、命の火はいつ消えるか分からない。出産直前に13トリソミーのことを知った母親は、絶望の中、生まれたばかりの子を目の前にして「あんがい可愛い」という思いを抱いたという。生後半年で退院して自宅療養に移り、1歳の誕生日を過ぎ、やがて2歳になり、微かに笑うなどの精神の発達も見られるようになった。いつ死ぬか分からない命だが、朝陽君は家族の一人として日常に溶け込んでいる。

「展利(=父)はネットを介した情報は要らないと言う。朝陽君の誕生日に13トリソミーを検索して以来、彼は一度もネット検索をしていない。ネット情報に意味がないとは言わないが、自分には必要がないと考えている。なぜならば朝陽君は、知識としてでなく、実在する人間として目の前にいるからだ。ネットで知識を得るよりも、朝陽君のここを触れば足が動く、あそこを突けば表情が変わる、そういうことを発見していくことの方が、意味があると展利は考えている」

この本に結論はない。ただ間違いなく言えることは、命は、それがどんなに小さく儚いものであったとしても、可愛いし、愛しく思えるということ。「あんがい可愛い」。その温かな気持ちを生んだだけでも、小さな命は家族にとって生まれてきた意味があったのではないか。

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