色川武大という信仰からは最も遠いイメージを持つ作家が綴る、旧約聖書についての随想。
阿佐田哲也の筆名でも知られる著者は、博奕で生きていた若い頃、偶然に近いきっかけで旧約聖書を手に取り、人間の叡智に恐れを抱いたという。
内向的で、コンプレックスを抱え、自身の内面に神を育ててきたという著者は、旧約聖書に描かれた神と人間との契約を、気分屋で嫉妬深い「イェホバさん」に振り回される、ある意味で人間同士の関係のように読み解いていく。
神は自身の存在を証明するために、人間に頼らなくてはならない。旧約聖書では、人が神を必要とする時期と、神を忘れて振る舞う時期が、繰り返し執拗に描かれる。そこに描かれているのは、神の万能さでも、道徳でもない。人間の本質であり、神も逆らうことのできない世界の“バランス”のようなものが浮き彫りにされている。
何かを得れば、何かを失う。「出エジプト記」以降の物語が示しているように、人は自由を得れば、安定を失い、安定を得れば、信仰を失う。進歩しているように見えても、それは何かと何かを交換しているに過ぎない。それは、まさに著者自身がはぐれ者の世界で身につけてきた処世訓でもあるのだろう。