イニシエーション・ラブ

乾くるみ「イニシエーション・ラブ」

冒頭から安っぽくて甘々な恋愛小説がずっと続いてちょっときついけど、最後の2行で、ほう、となる。この仕掛けがすべて。

物語そのものには特筆すべきものは何もないが、改めて細部を振り返ると、非常に良くできている。叙述トリックは、そればっかりだと食傷気味になるけど、たまに読むとやっぱり楽しい。静岡が舞台というのが小説では結構珍しく、新鮮。

インディヴィジュアル・プロジェクション

阿部和重「インディヴィジュアル・プロジェクション」

数年前に一度読んだはずだが、印象も内容もまったく記憶に残っていない。久しぶりに読んでみると、意外なほど面白い。

スパイ塾、事故、殺人、ヤクザ、プルトニウム…、読み進むにつれ、どこまでがこの物語の中の「現実」で、何が主人公の記憶の錯綜なのか分からなくなってくる。最後まで読むと、どっちでもいいやという気持ちに。不思議な読後感だが、悪くない。良い意味で“B級純文学”と言えるかもしれない。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

無茶苦茶、面白い。史上最強と言われる木村と、その名声を地に落とした力道山、木村の師の牛島辰熊、弟子の岩釣兼生の物語を軸に、日本の格闘技史を貫くノンフィクション。

強さを求めた「鬼」たちの歴史は下手な小説よりもよっぽど劇的で、格闘技に全く興味の無い自分でも引き込まれる。著者の木村への溢れるような思いと迷い。結局、これもひとつの偽史かもしれないが、これほど魅力のある歴史があるだろうか。2段組700ページがあっという間。

Self-Reference ENGINE

円城塔「Self-Reference ENGINE」

時間が壊れた世界を描くSF長編(短編連作)。時間軸と共に物語も拡散し、難解と言うよりも煙に巻かれた感じ。個々のエピソードや文章には気の利いたユーモアが溢れ、ところどころ非常に面白い。ボルヘス、安部公房、小松左京あたりを混ぜたような雰囲気がある。

旅行人

「旅行人165号 世界で唯一の、私の場所 《休刊号》」

一つの時代の終わりといっても大げさではないだろう。この雑誌が無くなってしまうのは本当に本当に寂しい。

最後の特集はライター、写真家、人類学者…etcのエッセイ集。どれも短いけど、それぞれの土地への思い入れが伝わってくる。

もちろん、この世に桃源郷なんてものは無いし、旅行者のセンチメンタリズムに過ぎないかもしれない。それでもそういう場所を持てる、世界には素敵な場所がたくさんあると思えるだけで、ずいぶんと幸せな気持ちになれる。
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天皇家の財布

森暢平「天皇家の財布」

天皇家と皇族でお金がどのように使われているのか。

公的な宮廷費と私的な内廷費、その曖昧な使い分けと憲法解釈で政教分離など様々な課題をクリアしていることなど、なかなか面白い。親王と内親王の教育費の出所、天皇と皇后の入院費用の出所がそれぞれ宮廷費、内廷費と分けていることなど、現代の感覚からすれば逆に問題があるんじゃないかと思うことも。

皇族費がどのような基準で配分されているかや、献上、賜与の上限額なども、細かな点ながら勉強になる。

砂の本

ホルヘ・ルイス・ボルヘス「砂の本」

無限のページを持つ「砂の本」。難解と言うよりも、まさに、迷宮のようと言ったほうがふさわしいボルヘス晩年の短篇集。物語は難しくないのに、自分の立ち位置が分からなくなるような。表題作と冒頭の「他者」が素晴らしい。

夏の朝の成層圏

池澤夏樹「夏の朝の成層圏」

現代の、というより、二十世紀のロビンソン・クルーソー。デビュー作だけあって荒削りながら、文明観や書くという行為への姿勢など著者自身のすべてが刻印されている。

文明の外を指向しながら、あくまで都市生活者という視点。それが成層圏という言葉に表される瑞々しい浮遊感を生んでいる。

女の民俗誌

宮本常一「女の民俗誌」

「平凡だが英知にみちた生活のたて方がもっと掘り起こされてよいように思う」

日本列島の無文字社会を丹念に記録した宮本の膨大な著作から、女性に関する文章を集めたもの。

生きることへの敬意といたわりに満ちたまなざし。母処婚や姉家督制度の話からは日本社会の多様性も浮かび上がる。最後に収録された母に関する文章も美しい。

恋する原発

高橋源一郎「恋する原発」

予想以上に不謹慎、想像以上にカオス。震災チャリティーAVを巡り、原発、宗教、天皇、北朝鮮に始まり、ディズニー、AKB、けいおん……、今ぱっと思いつく限りの「批判できない空気」があるテーマをエログロ交えて書き荒らす。

十年後、二十年後まで残っているような名作とは思わないけど、面白い。こういう作品が出せるのが文学や小説の懐の深さだろう。