ふるあめりかに袖はぬらさじ

有吉佐和子「ふるあめりかに袖はぬらさじ」

露をだに厭う倭の女郎花、ふるあめりかに袖はぬらさじ

自ら命を絶った遊女、亀遊は攘夷の嵐の中、偽りの辞世の句まで添えられ、攘夷女郎としてまつりあげられる。親しかった芸者、お園は時代の空気に流され、虚構を語り継ぐ。

伝説は求める者がいて生まれる。まさに現代社会にも通じる作品。

実際に玉三郎のお園で上演されているが、読んでいて歌舞伎の舞台が目に浮かぶような台詞の数々が素晴らしい。

併録の「華岡青洲の妻」も小説の戯曲化で、献身的な妻と母、その対立に気付きながら利用していた青洲、誰一人として本心を喋らない。シンプルな台詞のやりとりに息が詰まるような緊張感が漂う。

日本の面影 ―ラフカディオ・ハーンの世界

山田太一「日本の面影 ―ラフカディオ・ハーンの世界」

ラフカディオ・ハーンの半生を描いたドラマの脚本。名シーンが多く、話の見せ方がとにかく巧い。日本が過激な欧化に突き進んだ明治期に来日し、消えゆく日本の面影を愛したハーンが、魅力的に、時にユーモアを交えて描かれている。
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ゴドーを待ちながら

サミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」

ただひたすらゴドーを待つ2人。ゴドーが何者なのか、2人は何者なのかは全く説明されず、意味のない会話が延々と続く。途中わずかに別の登場人物も絡むが、何かが起こってほしいという期待は裏切られ続ける。

不条理劇の代表のように言われているけど、シンプルに人生や家族の寓話のように読めばそれほど難解ではない。「Godot」は「神」でも「死」でも「ドラマ」でも何でもいい。難解ではないが、いくらでも解釈できるのが難しく見せている。それも人生らしい。

マクベス

シェイクスピア「マクベス」

四大悲劇の一つとされているけど、「リチャード三世」のようなスピード感と鮮やかさがあって読みやすい。リチャード三世は悩まず破滅の道を走るが、マクベスは苦悩し、魔女の予言に囚われてしまう。マクベスと夫人の会話は1人の人間の内面のやりとりのよう。夫婦の立場が入れ替わる構成も巧み。シェイクスピア作品の中でも、物語の見せ方という点で、特に現代的に感じる。

兄帰る

永井愛「兄帰る」

多額の金を横領して失踪した兄、幸介が十数年ぶりに帰ってくる。親戚も交えて責任を押しつけ合う中、流され続ける弟、保。“部外者”として正論を吐き続ける保の妻、真弓。人物描写が絶妙で、登場人物の誰にも愛着が持てない一方で、どこか感情移入してしまう部分がある。「正論の怪獣」の真弓が最後に揺らぐことで、正論なんてそもそも幻想ではないのか、誰もが欺瞞の中で生きているなら、嘘つきの幸介が一番筋が通っていて、だからこそ一番やっかいなのだ、そんな気さえしてしまう。

岸田國士「紙風船」ほか

ハヤカワ演劇文庫「岸田國士I」

岸田國士の短い戯曲13篇。「紙風船」など夫婦の日常を切り取った作品が多い。変化していく夫婦、男女、家族の関係。大正時代に書かれたものとは思えない。すれ違い、取り繕い……会話の微妙な空気を芸術として提示する姿勢は現代の作品と変わらない。

生身の人間が行う演劇は人間関係の緊張感や閉塞感を顕在化させる。別役実は「劇作家は時代による対人関係の変化を捉えるのが仕事」と語っていたが、そうした意味では、岸田國士の短い作品は演劇の見本のよう。

近代能楽集

三島由紀夫「近代能楽集」

三島由紀夫が能を現代風に翻案した戯曲集。非常に巧みな翻案で、短編小説よりも短い文章に三島のエッセンスが凝縮されている。能楽の美と三島の美意識が深いところで共鳴しているよう。

解説でドナルド・キーンが書いているように、能は言葉遣いは古くても、内容自体はギリシア古典劇と同様、時代に全く関係が無い。時代を超越した人の情念や美を描いていることがよく分かる。

リチャード三世

シェイクスピア「リチャード三世」

シェイクスピアの描く“極悪人”。兄弟を陥れ、仲間を殺し、未亡人を誘惑する。饒舌で、語りかけや傍白が多く、観客から近いところにいると感じられるためか、悪人ながら強烈な魅力を放っている。フォルスタッフ、オセロ、ハムレット…シェイクスピアはどの作品でも物語よりも人物に強い印象が残る。

おかしな二人

ニール・サイモン「おかしな二人」

妻と別れただらしない男と、几帳面すぎる故に結婚生活が破綻した男。バツイチの男同士で始まった同居生活。二人の関係は次第に夫婦のようになっていき、やがてその“結婚生活”も再び破綻する。

ほぼ半世紀前の作品で、今となってはありきたりに思えるような設定だけど、登場人物がいきいきと動くさまは似たような作品を寄せ付けない。コメディのひとつの完成形と思えるテンポの良さ。