ワーニャ伯父さん/三人姉妹

チェーホフ「ワーニャ伯父さん/三人姉妹」

人生を棒に振ったと悔やむワーニャ、自分は華々しい人生を生きることはできないと悟っているソーニャ、現実と向き合いきれない三人姉妹。

チェーホフの戯曲には主役がいない。この2作は、どこか達観したような「桜の園」ほど乾いておらず、結構暗い印象。決してすっと心に入ってくる作品ではないけど、この閉塞感は胸に迫る。

誰もが抱える、思い描いていた人生を歩めないという絶望。それを甘いと切り捨てられる人には全くひびかないだろうけど。

父と暮せば

井上ひさし「父と暮せば」

原爆投下後の広島。娘の幸せを願う父の亡霊と、幸せになってはならないと自分を責める娘。随所にちりばめられた井上ひさしらしいユーモアがとにかく切ない。それでも、幻とはいえ、幸せを祈ってくれる父の姿を思い描くことが出来た娘は幸せだったのだろう。

「あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ。おまいの勤めとる図書館もそよなことを伝えるところじゃないんか」

「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが」

語り伝えるという井上ひさしの決意が全面に打ち出された作品。

太鼓たたいて笛ふいて

井上ひさし「太鼓たたいて笛ふいて」

『放浪記』で知られる作家、林芙美子の後半生を描いた評伝戯曲。

プロデューサー三木孝が囁く「戦争は儲かる」。

従軍文士として「わたしは兵隊さんが好きです。国家の運命という大きな物語に、兵隊さんたちはお一人お一人の物語を捧げてくださっている」と“太鼓たたいて笛ふいて”戦意昂揚に尽くした林芙美子は、戦地を回るうちに敗戦を悟り「非国民」になる。

「滅びるにはこの日本、あまりに美しすぎる」と三木らを前に“非国民の愛国心”を歌う場面は胸を打つ。

物語を作るはずが、国や国民の求めた「物語」に踊らされた作家は戦後、急逝するまでの6年間、「物語」を捨てて庶民の悲しみを書き続けた。井上ひさしは評伝劇を書くのが本当に上手い。舞台を見逃したことが悔やまれる傑作。

桜の園

チェーホフ「桜の園」

チェーホフの代表作の一つ。時代の変化とともに没落していく家族の姿を描いた戯曲だが、悲劇の湿っぽさはなく、乾いた、おおらかな空気が流れている。喜劇としてこれを書くセンス、抑制された会話、背後に流れる物語の広がり。隙なく完成された作品。

動物園物語/ヴァージニア・ウルフなんかこわくない

エドワード・オールビー「動物園物語/ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」

エドワード・オールビーの戯曲2篇。アメリカらしいリアリズムの上に築かれた不条理劇。

「動物園物語」は、著者略歴で現代社会のコミュニケーションの欠落を描いた作品と書かれているけど、むしろこれを欠落と捉えることが現代的なのかも。

「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」は二組の夫婦が入り混じって罵り合う、凄みのある対話劇。破綻したように見える関係の中でも、夫婦は人生を共有している。

炎の人

三好十郎「炎の人」

炎の人、ゴッホ。その評伝劇というより、むしろ讃歌。ストレートな言葉の数々が美しい。ゴッホと三好十郎自身の姿がだぶるが、さらにこの戯曲中のゴッホには、人類のかけがえのない滑稽さのようなものが重なって見える。貧しい中でも、先が見えなくても、必死で何かを生み出そうとする人間の営みに対する力強い讃歌といえる作品。

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー

三島由紀夫「サド侯爵夫人・わが友ヒットラー」

サド侯爵を周囲の女性から描く三島由紀夫の戯曲。三島自身が解題で書いているように、日本で特異に発達した“翻訳劇演技”を逆手にとって豊穣な台詞を語らせている。詩のような言葉が続き、対話というより語り、様式美の世界。意識してこのような作品を書ける三島の超絶技巧にため息が出る。

併録の「わが友ヒットラー」は「サド侯爵夫人」ほどの衝撃は無いが、分かりやすく、スリルのある政治劇。粛正されるレームへの共感が滲んでおり、三島の政治観とともに人生観も垣間見えて興味深い。

署名人/ぼくらは生れ変わった木の葉のように/楽屋

清水邦夫「署名人/ぼくらは生れ変わった木の葉のように/楽屋」

清水邦夫の初期の戯曲3編。代表作「楽屋」と処女作「署名人」は、シンプルだが、独特なテンポで交わされる鋭い言葉のやりとりに中毒性がある。闖入者が取り込まれて逃げ出せなくなる「木の葉のように」は、安部公房の「友達」を逆転させたような怖さがあって面白い。