あとかた

千早茜「あとかた」

デビュー作の「魚神」とはだいぶ違う雰囲気の連作短編。空虚な日常、日々の倦怠感、あるいはそこに端を発する不倫、のような話は既視感があるし、こういう表現はあまり使いたくないが、最初はかなり女性的な小説に感じた。ただ、読み進めるうちに不思議と引き込まれて、もっと先を読んでみたいと思ったし、読み終えて不思議と心に残った。現実感と非現実感の間をたゆたうような筆致、各短編の重なり具合なども巧みな印象。

魚神

千早茜「魚神」

どこの国の、いつの時代かも分からない掃溜めのような島で互いを心の拠り所に暮らしていた姉弟。伝説の遊女の名を継ぐ白亜、心を見せないスケキヨ。巨大魚と遊女の伝説。所々既視感はあるものの、デビュー作でこれだけ世界観を作ることができるのはかなりの大器を感じさせる。連作の絵画、あるいは耽美的な映像作品を見たような読後感。

蛍の森

石井光太「蛍の森」

ハンセン病に対する苛烈な差別を正面から描いた石井光太の小説。一歩間違えばただ悪趣味なだけになってしまいかねない題材だが、四国の山中にあったカッタイ寺を舞台に、療養所に隔離されることを拒み、社会から姿を消したことで歴史に残らなかった存在を蘇らせることに成功している。
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雪男は向こうからやって来た

角幡唯介「雪男は向こうからやって来た」

雪男捜索のルポというよりも、雪男が実在すると確信し、生涯をそれに費やした男たちの物語。著者は08年の雪男捜索隊に参加しているが、その時の記録より、それ以前に雪男の姿や足跡を目撃したことがきっかけで、死ぬまでヒマラヤに通い続けることになった人々の話が印象深い。

人がふとしたきっかけで信仰の道に入るように、雪男は向こうからやって来て、彼らを離さなかった。「空白の五マイル」は冒険そのものの凄みで読ませたが、UMAのような読む前に結果が分かっている題材をここまで読ませるのは相当な筆力。大きさや外見はともかくとして、ヒマラヤに2足歩行する未知の動物=雪男はいるのかもしれないと思わされた。

島国チャイニーズ

野村進「島国チャイニーズ」

劇団四季からチャイナタウン、山形の農村の中国人妻まで、在日華僑、華人の話を聞いて歩く。

つい、「在日」として韓国・朝鮮系と(しばしばマイナスイメージで)ひとくくりに考えがちだが、日本での生活への満足度や、国籍、中国名へのこだわりの薄さなど実態は大きく異なる。雑誌連載がもとになっているためか、それぞれの話が少し浅いけど、在日チャイニーズの多様さに気付かされる。
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ヨーガの哲学

立川武蔵「ヨーガの哲学」

思想、宗教としての側面が忘れられつつある「ヨガ」。個人的に印度哲学の知識不足で思想としてはちんぷんかんぷんの内容だけど、宗教的実践としてのヨーガがどう発展してきたか、禅や密教にも通じる話で結構面白い。

心を止揚させるための古典ヨーガが、心の作用を活性化させるためのハタ・ヨーガへと変化し、健康法としてのヨガもこの流れを(欧米を経由して)継いでいる。「俗」を徹底的に否定することにより「聖」を目指す当初の立場が、「俗」を聖化する方向へと発展したのは、インドに限らず、他の宗教の歴史にも通じるものがあり、興味深い。

山岳気象大全

猪熊隆之「山岳気象大全」

無茶苦茶ためになる一冊。山岳地帯でどう天気が変化していくのか、地形による影響も含めて解説していてとても分かりやすい。

山の天気は天気予報だけでは頼りないと思いつつ、これまで漫然と地上天気図を眺めるだけだったけど、高層天気図や地形、実際の雲の様子を考慮に入れた天気の見方が分かり、目からうろこ。過去の遭難事故の多くを前後の天気図と比較して検討しているのも勉強になる。2年前の出版だけど、もっと早く読んでいれば。

ムッシュ・クラタ

山崎豊子「ムッシュ・クラタ」

戦前、戦中を通じてフランス文化に心酔し、「ムッシュ・クラタ」と揶揄されたある新聞記者。浮世離れしてキザなだけに思えた人物像が、知人や家族の回顧を通じて徐々に深みを増していく。

人の本質は一人では捉えられないということを強く感じさせる表題作ほか、どれも味わいがある短編。社会派、大作のイメージが強い山崎豊子だが、小品も素晴らしい。どの短篇も書こうと思えば大長編にできそうな奥行きがあって、この人は書くべきものをどれだけ持っていたのだろうと思わされた。

広田弘毅 ―「悲劇の宰相」の実像

服部龍二「広田弘毅 ―『悲劇の宰相』の実像」

「落日燃ゆ」では、広田弘毅は筋の通った人物で、傑出した外交官として描かれるが、外相就任後の動きを丁寧に見ていくと、彼も典型的な、平凡な政治家の一人に過ぎなかったという印象を受ける。協調外交や平和主義への志向は確かに強かったのだろうが、時流には逆らえなかった、というより、近衛内閣のポピュリズムのもとで時流に対して逆らおうとしなかったのではないか。

もちろん、行動や発言を丁寧に追っていくと、凡庸ではない人間なんて歴史上にいない。というより、人の凡庸さを見つめるのが歴史学だろう。そうした意味で、この本に書かれている広田の“凡庸さ”は、現代の政治を考える上でも重要な視座と言える。