献灯使

多和田葉子「献灯使」

表題作は、原発事故を思わせる大災害を経て鎖国した日本が舞台。老人は死なず、若年層は虚弱で早世の運命にある。主人公の義郎は100歳を超え、食事も着替えも一人ではままならない曾孫の無名の世話をしながら暮らしている。

外来語が禁止されたことで、奇妙な日本語が発展し、「ジョギング」が「駆け落ち」と呼ばれ、「御婦裸淫(オフライン)の日」なる祝日があるなど、人間と社会も従来の価値観では計れない方向に進化している。義郎と無名の日常の描写は滑稽でありながら、もの悲しく、どこか美しくもある。

いわゆるディストピア小説と言えなくもないが、SF小説のような緻密な設定や描写のリアリティはここには無い。大まじめな顔で冗談を言っているような奇妙な手触りだけがある。ただ、その手触りの気持ち悪さは、どこか現代の日本社会に通じている。

併録の「韋駄天どこまでも」「不死の島」「彼岸」「動物たちのバベル」も震災と原発事故を意識した作品で、それぞれに違ったアプローチを試しているような印象を受ける。その中で表題作のユニークさが際立っている。

 

震災と原発事故の後、さまざまな作品が書かれたが、いとうせいこうの「想像ラジオ」や、飴屋法水の戯曲「ブルーシート」といった鎮魂の試みというべき作品群以外は、希望を書いた物語も、あるいはその希望を批判的に見るディストピア小説も、現実の前には軽薄で無力に感じられた。

著者はドイツ在住で、当事者ではないということを意識している。だからこそ、絶望と希望の価値判断から距離を置き、斜めから見たような作品が書けたのかもしれない。

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