中島らも「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」
進学校で落ちこぼれていった日々から、フーテン時代までを振り返るエッセイ集。躁鬱やアルコール依存のイメージ、夭逝したこともあって型破りな人という印象が強いが、文章は柔らかく、温かい。それは、自身の弱さを隠さず、人の弱さを否定しないからだろう。自殺した友人について書いた文章が特に心に残る。
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読んだ本の記録。
中島らも「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」
進学校で落ちこぼれていった日々から、フーテン時代までを振り返るエッセイ集。躁鬱やアルコール依存のイメージ、夭逝したこともあって型破りな人という印象が強いが、文章は柔らかく、温かい。それは、自身の弱さを隠さず、人の弱さを否定しないからだろう。自殺した友人について書いた文章が特に心に残る。
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中島らも「今夜、すベてのバーで」
重度のアルコール依存症だった著者が、連続飲酒で入院した病院での日々をもとに綴った小説。「酒をやめるためには、飲んで得られる報酬よりも、もっと大きな何かを、『飲まない』ことによって与えられなければならない。それはたぶん、生存への希望、他者への愛、幸福などだろうと思う」。飄々としたゆるい描写の中に、ところどころ透徹した視線が見え隠れするのが著者らしい。
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スベトラーナ・アレクシエービッチ「チェルノブイリの祈り ―未来の物語」
昨年のノーベル文学賞受賞作家。“チェルノブイリ後”を生きるベラルーシの人々の聞き書き。事故後の収束活動にほぼ強制的に動員された予備役の兵士達、夫を失った妻、先天的な病を持つ子を抱える母、 疎開先で差別された子、残された動物を殺して回った猟師、避難区域に戻って暮らすサマショールの人々…。読んでいて胸が締め付けられる。
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2015年に読んだ本は121冊(前年比15冊増)、3万5683ページ(同5958ページ増)。前年より多少増えたが、11〜13年と比べると少ない。震災で公私共に色々あった11年が149冊だったことを考えると、時間的にも精神的にも余裕のある時より、余裕のない時の方が本に逃げ込む傾向があるように思う。
飛び抜けて強い印象を残した本は無いが、良い本は多かった。
ノンフィクションでは、岡田喜秋「定本日本の秘境」、高野秀行「恋するソマリア」、高山文彦「どん底 部落差別自作自演事件」、佐藤清彦「土壇場における人間の研究 ニューギニア闇の戦跡」、小熊英二「生きて帰ってきた男 ある日本兵の戦争と戦後」、小林和彦「ボクには世界がこう見えていた 統合失調症闘病記」、オリバー・サックス「妻を帽子と間違えた男」、アブドルバーリ・アトワーン「イスラーム国」など。
小熊英二「生きて帰ってきた男 ―ある日本兵の戦争と戦後」
著者の父の半生を聞き取りでまとめたもの。小熊英二の父、謙二は敗戦後にシベリアに抑留された経験を持つが、その生涯は平均的なもの(それは典型的なイメージ通りの人生ということを意味しない)で、決してドラマチックではない。だからこそ、一人の個人史から時代を描く試みが成功している。
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横山悠太「吾輩ハ猫ニナル」
冒頭に「日本語を学ぶ中国人を読者に想定した小説を書く」とあるように、遊び心(一種の批評性と言えなくもない)に富んだ小説。ルビを大量に使用し、中国語(の漢字表記)と日本語の折衷と言った文体。外公(じいじ)、媽(おかん)、電視(テレビ)、方便店(コンビニ)などから、洗衣機(せんたくき)といった日本語かと思って読むとちょっと違う表記もあって、なんだか不思議な感覚。講(かた)り、累(つか)れ、さらには好基友(ホモダチ)といった単語まで。後半ルビが減ってくるが、それでもほぼ意味は取れる。どんな表現、表記でも飲み込んでしまう日本語の柔軟性を示していて不思議な読書体験を味わえるが、残念ながら、小説として面白いかというと。
三浦哲郎「忍ぶ川」
最後の一篇を除いて私小説的な短編集。兄二人が失踪し、姉二人が自殺、残る一人の姉も目を患っている。著者自身を投影した主人公は、自らの血に深い不安を抱え、妻の二度目の妊娠で初めて親になる決意をする。特に印象的なのが、父の臨終の場面。尋常に死んでいった父を見て、悲しみよりも安堵を抱く。肉親の死を恥と思い生きてきて、父の死の平凡さは救いとなった。妻の志乃ができすぎた人のため、自らの血や出自に対する不安に共感できない人には、主人公がただの身勝手な男に映るかもしれないけど。
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