さようならコロンバス

フィリップ・ロス「さようならコロンバス」

アメリカらしい雰囲気に満ちた青春恋愛もの。今や超大御所のイメージがある著者だが、この作品は若く瑞々しい。ひと夏の恋の始まりから終わりまで。よくあるプロットながら、背景にアメリカにおけるユダヤ人社会の姿が書き込まれていて、主人公が働く図書館に通う黒人少年の描写など細部も印象的。普遍的で、かつ唯一無二。
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オランダ風説書

松方冬子「オランダ風説書 ―『鎖国』日本に語られた『世界』」

長崎のオランダ商館が幕府に提出していた風説書。幕府が国際情勢をどう捉えていたのか、江戸時代の国際感覚を知りたいと思って手に取った本だが、実際には風説書の影響は限られていたという。
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イスラーム国

アブドルバーリ・アトワーン「イスラーム国」

ISの成り立ちは『テロリストが国家をつくる時』が分かりやすかったが、この本はそうした内容に加えて、近代以降の欧米とアラブ諸国の外交や、アラブの春以降の各国内部の事情などが独自の情報も交えて詳しくまとめられており、現在の中東情勢を俯瞰する良書。ISの掲げる「カリフ制国家の再興」という目標が決して時代錯誤な狂信的なものではなく、残虐性のPRもよく計算されたものだということが分かる。ワッハーブ派とサウジアラビアの関係から、アフガン紛争、ジハード組織の拡散あたりまでは多くの本に書かれているが、イラク戦争以降はまだ体系的にまとめた書物が少なく、日本での報道も散発的なため勉強になった。
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青春を山に賭けて

植村直己「青春を山に賭けて」

植村直己の自伝。 今さらながら手にとって、予想以上に面白くてびっくり。アメリカやヨーロッパで肉体労働をしながら資金を稼ぎ、モンブランやキリマンジャロへ。アコンカグアの後にはアマゾンを筏で下る。旅や登山の商業パッケージ化が進む前の冒険物語で、読んでいてわくわくする。
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サンダカン八番娼館

山崎朋子「サンダカン八番娼館」

南洋で春をひさいだ“からゆきさん”の聞き書き。

精神的に鎖国しているような戦後の日本に暮らしていると忘れそうになるが、ほんの70年前まで、夥しい数の日本人が、満州から南洋、果ては遥かアフリカや南米まで出稼ぎのため海を渡った。女性史研究を志す著者は、天草の地でボルネオ・サンダカンの娼館で働いていたというおサキさんと偶然出会い、3週間同居して話を聞き出す。

売春を底辺と言い切り、貧しい、悲惨と連呼する観察者視点や、身分を偽っての取材は(結果オーライだったとしても)今読むとかなり違和感があるが、消え去るはずだったからゆきさんの声が後世に残ったことは大きな価値がある。貧しさから10歳で身を売り、異国で一晩に多い時は30人の男を相手にする生活。敗戦後、故国に帰っても居場所はなく、身内からも社会からも恥部として隠される。

大学時代に訪れたザンジバル(タンザニア)にもからゆきさんの娼館が残っていて驚いたが、今やザンジバルの名すら知らない日本人が大多数だろう。

坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ

坂東三津五郎「歌舞伎の愉しみ」

坂東三津五郎の聞き書き。初心者向けの歌舞伎入門や好事家向けの芸談はたくさんあるが、歌舞伎を多少なりとも見たことがある“中級者”向けの本は少ない。その層を対象としており、演目ごとの工夫や先人の思い出など、分かりやすく内容も充実。歌舞伎ファン必読。
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槿

古井由吉「槿」

記憶の断片と、とりとめのない思考が混じり合う。離人症という言葉が作中に出てくるが、今ここに生きているという実感が失われてしまう瞬間を伸び縮みする不思議な文体でとらえている。読みやすい小説ではない。一文一文は極めて平易な日本語なのに、一段落となると理解に苦しむ。二人の女との関係が物語の主軸となるが、著者はそのドラマに筆を割くわけではない。人物描写も不可解だが、妄想が絡み合って互いの思考に根を下ろしていく様はリアリティがあり、生きることに対する根源的な恐怖のようなものが心に残る。