桂吉坊がきく藝

桂吉坊「桂吉坊がきく藝」

当時20代半ばの若手落語家、桂吉坊が、茂山千作や竹本住大夫、宝生閑、坂田藤十郎、市川團十郎ら、各界の錚々たる名人の話を聞いたもの。芸に対する貪欲な好奇心と真摯な姿勢がうまく話を引き出していて、レベルの高いインタビューとなっている。住大夫の「声でなく息で変える」など、名人芸の神髄が分かる。

ティンブクトゥ

ポール・オースター「ティンブクトゥ」

ホームレス詩人ウィリーと犬のミスター・ボーンズ。ボーンズの視点で語られる話だが、その思考は哲学的で、もはや犬である必然性が無い。そうした設定も含めて決してセンチメンタルにならないのがオースターらしい。あらすじはシンプルだが、安易なメロドラマに堕さない。ウィリーに先立たれたボーンズは新たな環境で生きていこうとするが……。現代のアメリカを書いた作品とも、生の実感と自由を巡る物語とも言える。

演出家の仕事

栗山民也「演出家の仕事」

演出入門と言うよりは、栗山民也が自らの演出手法を通じて、演劇観、さらには世界をどう見るかという哲学を語ったもの。とにかく「聞く」(=見る=読む)と言うことを大切にしている。誰かの話す小さな声、世界の微かな変化。それらを拾い上げることから何かが生まれる。栗山民也は自分らしさや独自性なんて一切気にしない。“自分の中にある何か”を外に発する事ばかりが芸術ではないということが分かる。ただ巻末に収録されている「『ロマンス』演出日記」を読むと、原稿が遅い井上ひさしのもとで働くことが多かったから、そうした姿勢が身についたという気がしなくもない。

あの日、僕は旅に出た

蔵前仁一「あの日、僕は旅に出た」

初めてのインド、仕事を捨てての長旅、「遊星通信」の発行、「旅行人」の出版、休刊……蔵前仁一の30年。

「深夜特急」の沢木耕太郎や「印度放浪」の藤原新也に憧れて旅に出た人は多いだろうが、旅に精神性を求めない普通の個人旅行者のスタイルを定着させたのはこの人だろう。旅行記にありがちな、自分探しのナイーブさも、インドかぶれのような説経臭さもそこには無い。
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歌舞伎 家と血と藝

中川右介「歌舞伎 家と血と藝」

師弟関係や養子縁組が複雑に入り組む歌舞伎の世界。家と血と芸がどう継承されているかを追っただけなのに、むちゃくちゃ面白い。中村勘三郎家が実質17代目に始まることや、松本幸四郎家の存在感、坂東玉三郎の奇跡、何人もの不遇の役者など、名跡がどう受け継がれているかだけではその全貌は見えてこない。著者自身が王朝や帝制という言葉を使っているように、後継問題を通して繁栄と衰退を繰り返すさまは世界史の縮図のよう。こうした舞台の背後の文脈は他の芸術では余分なものと考えられるが、歌舞伎では大向うから掛かる声が役名ではなく屋号や代数であるように、欠かせない要素なのだろう。歌舞伎入門にもお勧めの一冊。

岸田國士「紙風船」ほか

ハヤカワ演劇文庫「岸田國士I」

岸田國士の短い戯曲13篇。「紙風船」など夫婦の日常を切り取った作品が多い。変化していく夫婦、男女、家族の関係。大正時代に書かれたものとは思えない。すれ違い、取り繕い……会話の微妙な空気を芸術として提示する姿勢は現代の作品と変わらない。

生身の人間が行う演劇は人間関係の緊張感や閉塞感を顕在化させる。別役実は「劇作家は時代による対人関係の変化を捉えるのが仕事」と語っていたが、そうした意味では、岸田國士の短い作品は演劇の見本のよう。

文楽の歴史

倉田喜弘「文楽の歴史」

操芝居から人形浄瑠璃、文楽の成立、発展過程を丁寧に追った概説書。大衆芸能の歴史は文字資料の不足から正確に辿ることが難しいが、三人遣いの成立や、興行への三味線の登場時期などに仮説を交え、かなり分かりやすい通史となっている。凋落と再生を繰り返しつつ、太夫、三味線、人形遣いの三業それぞれの技術の発展、改良で人気を保ち、伝統を築いてきたことがよく分かる。三和会、因会の分裂など、戦後の記述は少なめだが、そのあたりは既に結構な量の本が書かれているので不要と言えば不要か。

落日燃ゆ

城山三郎「落日燃ゆ」

戦前、戦中を通じて外相、首相を歴任し、文官としてただ一人A級戦犯として処刑された広田弘毅。“自ら計らわぬ”広田を通じて、個人が抗えない、時代の大きなうねりが浮かび上がる。広田というよりは、戦争へと流れる時代を描いた小説。

今読めば、「長州の作った憲法=統帥権の独立=軍部の暴走」が日本を滅ぼしたとするのは歴史観として単純すぎるし、広田に過剰に肩入れするのも戦後日本の自己弁護の典型例と言えなくもないが、誰が時代の流れを止められるのかという問いを鮮やかに突き付けてくる点で、極めてスリリングな現代史のドキュメントとなっている。