貧乏人の経済学

アビジット・V・バナジー、エステル・デュフロ「貧乏人の経済学 ―もういちど貧困問題を根っこから考える」

マクロな“貧困の経済学”ではなく、ミクロな“貧しい人の経済学”。

極めて貧しい人たちが、なぜ事業を営むのか。なぜ事業が拡大し得ないのか。食料に、蚊帳に、教育に費やすコストが予想より低くなるのはなぜなのか――。
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生きていく民俗

宮本常一「生きていく民俗 -生業の推移」

村で、町で、山で、海で、川で、人が生きていくためにどう働いてきたか。自給可能な社会、行商の始まり、職業の分化、差別の発生……人と生業の関わりと町や村の変容を追う。

宮本常一の民俗学は、文字の資料のみに頼らず、日本列島をくまなく歩いた自らの経験を元に築かれている。それは学術的な弱さの一方、世間師の語りとして無類の説得力を持たせている。そこらの啓発本よりよほど、働くこと、について見つめなおすきっかけになる一冊だと思う。

プロメテウスの罠2

朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠2」

良くも悪くもドキュメンタリー的で物足りない部分もあった1巻より、再処理の問題や気象庁の津波予測のミスなど、新聞らしい調査報道が増えた。英仏を通じた核燃料再処理も総括原価方式のような仕組みでコストが肥大化し、関係会社の間で環流して電気代に上乗せされている。下北半島の開発史も興味深い。福島の浜通りも同じ構図だけど、夢が先行した開発はやがて行き詰まり、歪んでしまう。

みちのくの人形たち

深沢七郎「みちのくの人形たち」

両腕のない仏さまと人形たち。逆さ屏風の影で消された無数の子の命。生きているもの、消えたもの、その境界はあいまいで、そこには理由も意味も無い。深沢七郎の文章はからっからに乾いていて、感傷というものが無い。あたたかくも無いし、冷たくも無い。表題作のほか、「秘戯」と「いろひめの水」も印象的。

人間はどこまで耐えられるのか

フランセス・アッシュクロフト「人間はどこまで耐えられるのか」

人間はどこまで高く、深く、暑く、寒く、速く…。

タイトルはともかく、内容は硬派な生理学の本。人間の挑戦と科学者による検証の歴史を振り返りつつ、身体の仕組みを、減圧症や高山病、熱中症の仕組みなどを交えて詳しく解説し、人間の限界を探る。
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古代ローマ人の24時間 −よみがえる帝都ローマの民衆生活

アルベルト・アンジェラ「古代ローマ人の24時間 −よみがえる帝都ローマの民衆生活」

古代ローマ人はどんな暮らしを送っていたのか。ローマの街並み、市場の喧噪、家々の作り、部屋の調度、人々の服装、髪型、夜の営み……旅番組のカメラが街中を散策していくように、夜明けから深夜までのローマの光景を描写していく。

中でもインスラ(集合住宅)の説明が興味深い。今から2000年前に既に現代のような生活が生まれ、何万棟もの高層住宅がひしめき合っていた。そのライフスタイルは、エネルギー源が電気か人力(奴隷)か以外にはほとんど違いが無いように思える。

テルマエ・ロマエの最高の副読本。かなり面白い。

唐草物語

澁澤龍彦「唐草物語」

藤原清衡、プリニウス、花山院、徐福…古今東西の故事、物語を換骨奪胎し、事実と空想が融け合う白日夢のような世界。作者=語り手が前面に出てきて、小説なのかエッセイなのかも分からない自由な語り口。知識が世界の広さ、奥行きだとしたら、博覧強記の人、澁澤龍彦には現実世界もこのように見えていたのかもしれない。

ヘヴン

川上未映子「ヘヴン」

中学を舞台に、いじめを取り上げたストレートな小説。この歳になったから平気で読み進められるけど、なかなかきつい小説。

それぞれのいる立場は偶然に過ぎなくて、選べる行為もあれば、選べない行為もある。いじめのシーンは執拗で、単調で、戯画的でもある。でも、いじめというのは外から見ればそういうものなのだろう。