水に似た感情

中島らも「水に似た感情」

不思議な魅力にあふれた小説。自身の体験を書いているという意味では、エッセイやノンフィクションとも言えるかもしれない。

取材で訪れたバリを舞台に躁病が高じていく前半と、入院を経て島を再訪する、不思議な静けさに満ちた後半。シンプルな中島らもの文体も、特に特徴が無いのに、読みやすいだけでなく、読んでいて少しずつ心が落ち着いていく。
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華氏451度

レイ・ブラッドベリ「華氏451度」

ブラッドベリの代表作の一つ。読書も書物の所有も禁じられた社会で、書き記すこと、を描いたかなりストレートな寓話だけど、本の消えた社会の光景は、現実の現代と怖いほど似ている。紙が燃え上がる温度を据えたタイトルは20世紀の小説でもトップクラスのセンスだと思う。

「わしたちには、いまやったことの愚劣さがわかるのだ。一千年ものながいあいだ、やりとおしてきた行為の愚劣さがわかるんだよ。それが理解できて、しかも、そのばかな結果を見ておるので、いつかは、やめるときがくる」

貧乏人の経済学

アビジット・V・バナジー、エステル・デュフロ「貧乏人の経済学 ―もういちど貧困問題を根っこから考える」

マクロな“貧困の経済学”ではなく、ミクロな“貧しい人の経済学”。

極めて貧しい人たちが、なぜ事業を営むのか。なぜ事業が拡大し得ないのか。食料に、蚊帳に、教育に費やすコストが予想より低くなるのはなぜなのか――。
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生きていく民俗

宮本常一「生きていく民俗 -生業の推移」

村で、町で、山で、海で、川で、人が生きていくためにどう働いてきたか。自給可能な社会、行商の始まり、職業の分化、差別の発生……人と生業の関わりと町や村の変容を追う。

宮本常一の民俗学は、文字の資料のみに頼らず、日本列島をくまなく歩いた自らの経験を元に築かれている。それは学術的な弱さの一方、世間師の語りとして無類の説得力を持たせている。そこらの啓発本よりよほど、働くこと、について見つめなおすきっかけになる一冊だと思う。

さいごの色街

井上理津子「さいごの色街」

遊廓の雰囲気を今なお残す大阪・飛田新地。文章の端々に、興味本位、という執筆動機が滲むが、取材はおろか、見学に立ち入ることも憚られる土地だけに、よくここまで書けたなと思う。取材対象を騙し討ちにする不誠実な取材過程も、売春の是非に対する自らの迷いも明らかにしつつ、飛田に生きる人びとの話を聞いて回った記録は読み応えがある。

夢よりも深い覚醒へ ―3・11後の哲学

大澤真幸「夢よりも深い覚醒へ ―3・11後の哲学」

リスク社会では中庸は最も無意味な選択肢になり、人は「リスクの致命的な大きさ」より、「リスクは事実上起きない」に傾いてしまう。命と経済性の天秤――倫理的に答えは明らかだが、その命が、想像の及ばない不確定な未来の命になった時、それは答えの無い“ソフィーの選択”になる。

原発事故を総括し、脱原発への思想を立ち上げようという試み。
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プロメテウスの罠2

朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠2」

良くも悪くもドキュメンタリー的で物足りない部分もあった1巻より、再処理の問題や気象庁の津波予測のミスなど、新聞らしい調査報道が増えた。英仏を通じた核燃料再処理も総括原価方式のような仕組みでコストが肥大化し、関係会社の間で環流して電気代に上乗せされている。下北半島の開発史も興味深い。福島の浜通りも同じ構図だけど、夢が先行した開発はやがて行き詰まり、歪んでしまう。

みちのくの人形たち

深沢七郎「みちのくの人形たち」

両腕のない仏さまと人形たち。逆さ屏風の影で消された無数の子の命。生きているもの、消えたもの、その境界はあいまいで、そこには理由も意味も無い。深沢七郎の文章はからっからに乾いていて、感傷というものが無い。あたたかくも無いし、冷たくも無い。表題作のほか、「秘戯」と「いろひめの水」も印象的。

人間はどこまで耐えられるのか

フランセス・アッシュクロフト「人間はどこまで耐えられるのか」

人間はどこまで高く、深く、暑く、寒く、速く…。

タイトルはともかく、内容は硬派な生理学の本。人間の挑戦と科学者による検証の歴史を振り返りつつ、身体の仕組みを、減圧症や高山病、熱中症の仕組みなどを交えて詳しく解説し、人間の限界を探る。
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