1992~2006年に書かれた作品を集めた短編集。文学的修辞を用いずに、人間関係の微妙な空気を描かせたら著者の右に出る作家はそうそういないと思うが、粗削りな初期の作品にもその片鱗は伺える。
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百年泥
新潮新人賞、芥川賞受賞作。主人公はチェンナイで暮らす日本語教師の女性。大洪水の翌日に橋の上で見た光景を通じて、さまざまな物語が浮かび上がる。
ひと言でまとめてしまえばマジックリアリズムだが、随所にユーモアがあり、敬意を込めてホラ話と評する方がふさわしい気がする。「インドを舞台とした小説」と言うより、「どこまで本当か分からないインド滞在記」という手触りで楽しく読めた。
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ボロ家の春秋
梅崎春生には「桜島」など戦争を題材とした作品群と庶民の生活を描いたものがあり、こちらは後者を集めたもの。
ひょんなことから始まったボロ家での同居生活を描いた表題作がめっぽう面白い。だまされてボロ家を間借りすることになった主人公のもとに、同じくだまされてボロ家を買わされた男が現れる。お互いに牽制し合う奇妙な同居生活がユーモラスな文体で綴られる。
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九年前の祈り
表題作以外の短編も同じ集落を舞台にしており、全体として土地を描いているという点では中上健次などに連なるものを感じさせる。ただ良くも悪くも中上ほどの破綻は無く、神話的な重力はない。
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先天性極楽伝
純文学と大衆小説両方の顔を持つ色川武大/阿佐田哲也の作品では、エンタメ側に振り切った読みもの。ピカレスク・コメディとでも言うような、痛快で軽妙な物語。いきあたりばったりで、ご都合主義全開、ツッコミどころ満載な展開に不思議と引き込まれる。
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とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起
身辺雑記である。私小説と呼ぶべきか、エッセイと呼ぶべきか、あるいは散文詩と呼ぶべきか。
両親の介護、年の離れた外国人の夫との喧嘩、子育ての難しさ、外国と日本を行き来する生活の苦労。そうした日々の出来事が、詩人らしい独特の文体で綴られる。語られている内容より、文章そのものこそが本質と言ってもよいかもしれない。ですます調で、ユーモアあふれる文体は親しみやすく、その文章の中に、中原中也や宮沢賢治、梁塵秘抄、説経節、浄瑠璃などからさまざまな言葉が借用され、溶け込んでいる。
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わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か
平田オリザ「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」
著者は、学校教育の現場や就職活動で、漠然と「コミュニケーション能力」が求められる風潮に疑問を呈しつつ、わかりあえないことを前提とした対話の基礎体力を身につける重要性を説く。コミュニケーション論というよりは、教育論というべき内容。
多様化、細分化、国際化が進んだ社会で求められるのは、「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく」こと。そこでは、「合わせる」「察する」ことよりも、最低限の社交マナーとしての対話力が必要となる。
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てんのじ村
愛撫 静物 庄野潤三初期作品集
庄野潤三はなかなか不思議な作家で、平易で親しみやすい文章の中に、どこか捉えどころのない不穏さが漂っている。
表題作の一つ「静物」は、子どもたちとの他愛もない断片的な会話を連ねた作品。意味深なようで、実は意味もなくただ日常を綴っただけかもしれない気もする奇妙な手触り。
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虫喰仙次
小説には作家のさまざまなコンプレックスが書かれ、あるいは滲み出ている。人に理解されない劣等感を抱えるということは、非常に孤独なことだ。だからこそ、その複雑な感情を作品の中に見つけられることは読書の大きな効用の一つでもある。
表題作は「小説 阿佐田哲也」にも登場した男の話。博奕仲間で、会社での出世競争に敗れた男の半生を通じて、著者らしい社会観が綴られている。
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