浮標

三好十郎「浮標(ぶい)」

三好十郎の代表作の一つで、自身の体験を書いた私戯曲。肺を患う妻と画家の夫。生活は困窮し、社会は少しずつ戦争への道を進んでいく。失うことができないものを、今まさに失おうとしている。これほど言葉の一つ一つから切実さが伝わってくる作品は無い。最後、死期の迫る妻に夫が万葉集を読み聞かせながら感情をぶつける場面は、初めて戯曲を読んで涙が滲んだ。タイトルに掲げられたブイは、茫漠とした人生の海で、波間に漂う孤独な姿にも、希望の微かな手がかりの比喩のようにも思える。
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巨匠とマルガリータ

ミハイル・A・ブルガーコフ「巨匠とマルガリータ」
(池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)

ずっと前に買ったまま、厚さで敬遠していた一冊。読み始めると、奇想天外な展開に引き込まれてあっという間に読了。第一部は、モスクワに悪魔が現れてやりたい放題。第二部はタイトル通り“巨匠”とマルガリータの恋に焦点が当たる。そこに巨匠が書いたピラトの物語が重なる。
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第三の男

グレアム・グリーン「第三の男」

映画で知られる作品だが、グレアム・グリーンの原作も当初から映画化前提で書かれている。映像的な場面展開に、心理描写などが削ぎ落とされた文体、大戦直後の分割統治下のウィーンの雰囲気が組み合わさって独特の雰囲気を生んでいる。陰鬱な空気の中、主人公の三文小説家が純文学の大家に間違われるエピソードが英国喜劇っぽくて面白い。

小説の技巧

デイヴィッド・ロッジ「小説の技巧」

「意識の流れ」「マジック・リアリズム」「信用できない語り手」「複数の声で語る」「エピフィニー」「メタフィクション」など小説の技法を実際の引用文とともに解説。元は英国の新聞連載で、短くまとまっているためとても読みやすい。創作というより批評や読解の入門書として優れている。訳者(柴田元幸)があとがきに記しているように「健全な技術的知識は、同じテクストから読み取れる情報量を増やしてくれるはずである。要するに、小説をより面白く読めるようにしてくれる」。
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毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災

フランク・ディケーター「毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962」

文化大革命の前史であり、人類史に残る政治的失敗である「大躍進」の全体像について、綿密な資料収集をもと描いた労作。何より、中国共産党の恥部についてここまでまとめられたことに驚く。中央の档案館(公文書館)にはアクセスできないため、地方の档案館の資料を用い、当時の悲惨な状況を詳らかにしている。
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定本 黒部の山賊 アルプスの怪

伊藤正一「定本 黒部の山賊 アルプスの怪」

戦後間もない頃に北アルプス最奥の地に山小屋を買い、そこに住み着いていた「山賊」とともに雲ノ平を拓き、登山者を見守ってきた伊藤正一氏。狩りの話から、ヘリコプターの無い時代の小屋建設の苦労、遭難者の救助。さらに、佐々成政の埋蔵金伝説をめぐる悲喜こもごもや、カッパや化け狸の話まで。
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スクラップ・アンド・ビルド

羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」

早う死にたか、と繰り返す祖父を楽にしてあげたいと、過剰な介護で死期を早めようとする孫。衰えていく祖父と、筋トレを繰り返し、自らを律しようとやや病的に振る舞う孫が対比され、そこに高齢化社会の閉塞感が滲む。最後は比較的さらっと終わってしまい、この先を書ききってほしかった気もする。