保坂和志「季節の記憶」
鎌倉を舞台に、父と息子、友人の兄妹との穏やかな日々を描く。大きな出来事は何もなく、子どもの目から見た世界の不思議と、大人の目から見た世界の不思議が綴られていく。
季節の記憶は年とともに層を重ねる。季節の移ろいに感じることは年を取るほど増えていく。
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読んだ本の記録。
保坂和志「季節の記憶」
鎌倉を舞台に、父と息子、友人の兄妹との穏やかな日々を描く。大きな出来事は何もなく、子どもの目から見た世界の不思議と、大人の目から見た世界の不思議が綴られていく。
季節の記憶は年とともに層を重ねる。季節の移ろいに感じることは年を取るほど増えていく。
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扇田昭彦「こんな舞台を観てきた: 扇田昭彦の日本現代演劇五十年」
昨年急逝した扇田昭彦氏の劇評集。
前半は60年代から90年代前半に見た舞台を振り返って書いたもので、後半は近年までのリアルタイムの評。
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井原今朝男「中世の借金事情」
中世以前の社会は、売買による経済よりも貸付取引による経済が先行していた。古代の出挙米をはじめ、中世には年貢公事なども請負者による前納、代納の仕組みが整い、貸借関係が社会を支えていた。ただその債務債権関係は現代とは大きく異なり、質流れには債務者の同意が必要で、返済の期日を過ぎても担保の所有権は移転せず、何年経っても返済すれば元の持ち主に返却されたという。また利率に制限は無かったが、利息は元本の2倍までとする総量規制がされ、利子は無限に増殖するものではなかった。
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ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」
しようもないハウツー本のようなタイトルだが、教養とは何かを中心に据えた本格的なテクスト論。しかもかなり面白い。
そもそも「ある本を読んだ」というのはどういう状態を示すのか。読んだとしても記憶に残るのは一部でしかありえないし、それすらも次々と忘却の彼方に去っていく。著者はフロイトのscreen memoryの概念を借用し、我々が語ることができるのはその都度作られる幻想の書物についてだと言う。さらに世界に読み切れないほどの本がある以上、ある本を読むことはある本を読まないことと表裏一体であり、教養とは、書物を読んだかどうかではなく、書物の位置と、自分の位置を知っていることだと言う。
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古川日出男「冬眠する熊に添い寝してごらん」
破格のスピードとスケール。明治の石油採掘村から現代の回転寿司屋まで、 現在と過去が複雑に溶け合う。2年前に蜷川幸雄演出で上演された戯曲で、ト書きに「時空は変容する」というような挑戦的な表現がしばしば出てくる。蜷川の演出は圧巻(舞台にそびえる“犬仏”や、客席通路までコンベアーを設置した巨大な回転寿司屋のセット、etc.)だったが、改めて戯曲を読んでみて、文学作品としても優れていると感じた。「あらゆるエネルギーは欲望する」という言葉に表されるように、近代日本のエネルギー史に、国家と個人の欲望が渾然一体となって描かれる。古川日出男は基本的には長編小説の作家だと思うが、戯曲もこの1作で終えてしまうのは惜しい。
峯村健司「十三億分の一の男 中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争」
権力闘争のドキュメント。毛沢東と劉少奇、華国鋒と鄧小平、江沢民と胡錦濤……、政治と権力闘争は切っても切り離せない関係だが、中国共産党のそれは民主国家の想像を遥かに上回る。
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V.E.フランクル「それでも人生にイエスと言う」
「夜と霧」のフランクルの講演録。自己啓発書のようなタイトルだが、これは強制収容所で歌われていた歌の一節から。
人間を手段として利用し、“価値のない命”を奪う優生思想と合理主義が行き着いた先で、生きる意味をどう見出すか。フランクルは収容所での体験と医師としての経験から数々の実例を紹介し、価値のない存在などないということを説く。特に障害者や病人などの命を奪った優生思想の誤りについては厳しく批判する。
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