ムッシュ・クラタ

山崎豊子「ムッシュ・クラタ」

戦前、戦中を通じてフランス文化に心酔し、「ムッシュ・クラタ」と揶揄されたある新聞記者。浮世離れしてキザなだけに思えた人物像が、知人や家族の回顧を通じて徐々に深みを増していく。

人の本質は一人では捉えられないということを強く感じさせる表題作ほか、どれも味わいがある短編。社会派、大作のイメージが強い山崎豊子だが、小品も素晴らしい。どの短篇も書こうと思えば大長編にできそうな奥行きがあって、この人は書くべきものをどれだけ持っていたのだろうと思わされた。

奴隷になったイギリス人の物語

ジャイルズ・ミルトン「奴隷になったイギリス人の物語」

欧州各地からモロッコに連れ去られ、奴隷となった人々の記録。黒人奴隷の影に隠れた歴史の盲点。100万という数字や記述の正確さは判断できないが、この事実を抜きにしては、当時の白人のイスラム観というか、ムーア人観は理解できないのだろう。
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彼岸からの言葉

宮沢章夫「彼岸からの言葉」

完全に趣味の問題だけど、エッセイはちょっとしたツボの違いでピンと来なくなってしまって、小説よりもシビア。

日常にひそむ気まずい瞬間などをうまく切り取っておかしみに変えてしまう感性はさすが。と思いつつ、著者のエッセイの中でも特に笑えると言われているらしいが、最後まで笑えず……

性風土記

藤林貞雄「性風土記」

古本で購入。“性”の遠野物語。

記録に残らないぶん、より不変なものと考えられがちな性風俗。この本の出版は昭和の半ば、紹介されている習俗は昭和初期に記録されたものが中心だが、旅人に身内を夜伽に出す貸妻、意味不明な柿の木問答など、現代からすればかなり衝撃的なものばかり。
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冠婚葬祭のひみつ

斎藤美奈子「冠婚葬祭のひみつ」

冠婚葬祭が現在の形になった歴史を取り上げた第1章が面白い。いかにも伝統っぽい神前式も、大正天皇の御婚儀を経て神社が結婚ビジネスに参入したことに始まる。葬儀も現在の告別式のルーツは中江兆民。どちらもせいぜい100年の歴史しかない。

桃と端午の節句が下火になる一方、宮参り、お食い初め、一升餅などのイベントの実施率は最近の方が高いというのも面白い。住宅事情や経済状況で、行いやすいイベントへと「伝統行事」は移っていく。
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調査されるという迷惑

宮本常一、安渓遊地「調査されるという迷惑 ―フィールドに出る前に読んでおく本」

善意の及ぼす結果や範囲に人は無自覚になりやすい。宮本常一の文章は1章だけだが、生涯を歩く、見る、聞くことに費やした宮本の問題意識が込められていて心に残る。

「調査というものは地元のためにはならないで、かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く、しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外なほど多い」
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わたしたちに許された特別な時間の終わり

岡田利規「わたしたちに許された特別な時間の終わり」

本谷有希子、戌井昭人など、ここ数年評価が高い新人小説家の多くが演劇畑出身というのは、活字漬けで育ってきた身からすれば少し淋しい。大江賞を受賞した岡田利規もその一人で、ここに収録された「三月の5日間」は00年代で最も影響が大きかったとされる演劇の小説版。イラクで戦争が始まった日からの5日間、渋谷のラブホテルでだらだら過ごしている男女を描いただけで、そこにはドラマも何も無い。ただよく分からない“特別な感じ”だけが漂う。

“特別”が分からなくなった現代。村上春樹が描いた時代の喪失感の次をとらえかけているような気がしなくもない。

陰翳礼讃

谷崎潤一郎「陰翳礼讃」

重々しい題から高尚な芸術論かと思われがちだが、基本的には偏屈文士の愚痴エッセイ。

西洋的なもの対する捉え方が結構偏見に満ちていて面白い。西洋人が清潔すぎると言って、「あの白い汚れ目のない歯列を見ると、何んとなく西洋便所のタイル張りの床を想い出すのである」。
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