忍ぶ川

三浦哲郎「忍ぶ川」

最後の一篇を除いて私小説的な短編集。兄二人が失踪し、姉二人が自殺、残る一人の姉も目を患っている。著者自身を投影した主人公は、自らの血に深い不安を抱え、妻の二度目の妊娠で初めて親になる決意をする。特に印象的なのが、父の臨終の場面。尋常に死んでいった父を見て、悲しみよりも安堵を抱く。肉親の死を恥と思い生きてきて、父の死の平凡さは救いとなった。妻の志乃ができすぎた人のため、自らの血や出自に対する不安に共感できない人には、主人公がただの身勝手な男に映るかもしれないけど。
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夜間飛行

サン=テグジュペリ「夜間飛行」

サン=テグジュペリの名作。徹底したリアリズム小説であると同時に、全編を通じて詩的な美しさをたたえている。中でも、一縷の光を求めて雲の上に出る場面は言葉を失うほど。
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若い読者のための短編小説案内

村上春樹「若い読者のための短編小説案内」

ガイドというより、それぞれの作品をどう読むかということを作家としての立場から綴ったエッセイ。すぐれた書評・読書案内であると同時に、読み物としても面白い。 “純文学”をどう楽しむか。「仮説を立てて読む」ということの喜びが冒頭に書かれている。仮説というと大げさに聞こえるが、確かにその通りで、それが可能なだけの奥行きを持つかどうかが、ただの散文か文学かの境目だろう。
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サンダカン八番娼館

山崎朋子「サンダカン八番娼館」

南洋で春をひさいだ“からゆきさん”の聞き書き。

精神的に鎖国しているような戦後の日本に暮らしていると忘れそうになるが、ほんの70年前まで、夥しい数の日本人が、満州から南洋、果ては遥かアフリカや南米まで出稼ぎのため海を渡った。女性史研究を志す著者は、天草の地でボルネオ・サンダカンの娼館で働いていたというおサキさんと偶然出会い、3週間同居して話を聞き出す。

売春を底辺と言い切り、貧しい、悲惨と連呼する観察者視点や、身分を偽っての取材は(結果オーライだったとしても)今読むとかなり違和感があるが、消え去るはずだったからゆきさんの声が後世に残ったことは大きな価値がある。貧しさから10歳で身を売り、異国で一晩に多い時は30人の男を相手にする生活。敗戦後、故国に帰っても居場所はなく、身内からも社会からも恥部として隠される。

大学時代に訪れたザンジバル(タンザニア)にもからゆきさんの娼館が残っていて驚いたが、今やザンジバルの名すら知らない日本人が大多数だろう。

どん底 部落差別自作自演事件

高山文彦「どん底 部落差別自作自演事件」

被差別部落の出身で役場の嘱託職員の男が、自身と関係者に差別ハガキを送り続け、偽計業務妨害で有罪になった事件。自作自演の背景に迫りつつ、現在も根深く残っている部落差別を浮き彫りにし、その闘争史に光を当てる力作。“犯人”だけでなく、関係者一人ひとりの人生を丁寧に追っている。
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HHhH

ローラン・ビネ「HHhH」

タイトルはHimmlers Hirn heißt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)という言葉から。ハイドリヒの暗殺事件を題材にしているが、一般的な歴史小説の文体をとらず、語り手が頻繁に登場し、叙述の悩みを吐露するメタ構造をとっている。
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西洋音楽史―「クラシック」の黄昏

岡田暁生「西洋音楽史 ―『クラシック』の黄昏」

いわゆる「クラシック」の前史も含めた西洋音楽の通史。とても分かりやすく、読み物としても面白い。作曲家や名曲の解説は少なく、音楽がどう変化して現在の形になったか、音楽と社会の関係がどう変わってきたか、という内容。
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幕末あどれさん

松井今朝子「幕末あどれさん」

タイトル(adolescents)通り幕末を舞台とした青春小説。といってもありがちな志士の話ではない。侍になじめず、芝居作者に弟子入りする青年と、部屋住みの身から立身出世を目指し、陸軍所に通って結果的に戊辰戦争に身を投じる青年。忠臣が逆賊となり、人も社会も目まぐるしく変わっていく。遠く長州で戦争が始まり、他人事だった江戸の町にもやがて戦火が迫る。価値観が転倒し、先の見えない時代に生きる人々の悩みが現代にだぶる。いつの時代だって、普通の人が普通に生きて社会に翻弄された。もし自分がこの時代に生きていたら、というリアルな実感を与えてくれる作品だった。芝居町の描写は著者ならでは。