ワーニャ伯父さん/三人姉妹

チェーホフ「ワーニャ伯父さん/三人姉妹」

人生を棒に振ったと悔やむワーニャ、自分は華々しい人生を生きることはできないと悟っているソーニャ、現実と向き合いきれない三人姉妹。

チェーホフの戯曲には主役がいない。この2作は、どこか達観したような「桜の園」ほど乾いておらず、結構暗い印象。決してすっと心に入ってくる作品ではないけど、この閉塞感は胸に迫る。

誰もが抱える、思い描いていた人生を歩めないという絶望。それを甘いと切り捨てられる人には全くひびかないだろうけど。

幕が上がる

平田オリザ「幕が上がる」

“静かな演劇”の地平を切り開いた著者がどんな小説を書くのか気になっていたら、これが意外なほど爽やかな青春小説。そして、まさにそれを狙ったのだろうけど、“高校演劇入門”としても白眉の出来。余計なドラマが無いのがいい。唯一のドラマが元女優の副顧問を巡る後半の展開だけど、それすら無くてもいいくらい。

普通の悩みだからこそ、かけがえがない。ドラマがないからこそ、日々は可能性と希望に満ちあふれている。こんな風に夢中になれるものを見つけられたら。

阿蘭陀西鶴

朝井まかて「阿蘭陀西鶴」

西鶴を盲目の娘の視点から描く時代小説。評伝であり、父娘の物語でもある。俳諧師として名を成しながら、やがて草子作者に転じる。市井の人々の抱える物語に興味を持ち、あふれる様に作品を生み出した西鶴の人柄が伝わってくる。「大衆小説」の誕生を描いた作品と言えるかもしれない。舞台は大阪。庶民の生き生きとした描写に、江戸の時代小説とは違う柔らかい雰囲気が漂う。

巷談 本牧亭

安藤鶴夫「巷談 本牧亭」

半世紀前の直木賞を受賞した、安藤鶴夫の小説での代表作。

東京最後の講談定席、本牧亭を舞台に、そこを訪れる常連、芸人の悲喜こもごもを淡々とした筆致で綴っていく。今となっては失われてしまった世界を描いていてちょっと切ないけど、読んでいて何とも温かい気持ちになる。どことなくからっとしているのは、江戸っ子気質か。人の世の喜怒哀楽全てに対して優しくなれそうな作品。

土壇場における人間の研究 ―ニューギニア闇の戦跡

佐藤清彦「土壇場における人間の研究 ―ニューギニア闇の戦跡」

「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と恐れられたニューギニア戦線。文字通り同胞相食む極限状態に陥った日本軍兵士の状況を、膨大な手記や証言から明らかにしていく労作。
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蒼煌

黒川博行「蒼煌」

日本芸術院の新会員選挙を巡る熾烈な買収合戦を描く。現会員が新会員を選ぶという仕組みから絶対的な上下関係が生まれ、画家と画商、政治家の思惑が入り乱れ、億を超える金が動く。物語としては特段面白いものではないが、描かれている世界があまりに衝撃的で引き込まれる。
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太鼓たたいて笛ふいて

井上ひさし「太鼓たたいて笛ふいて」

『放浪記』で知られる作家、林芙美子の後半生を描いた評伝戯曲。

プロデューサー三木孝が囁く「戦争は儲かる」。

従軍文士として「わたしは兵隊さんが好きです。国家の運命という大きな物語に、兵隊さんたちはお一人お一人の物語を捧げてくださっている」と“太鼓たたいて笛ふいて”戦意昂揚に尽くした林芙美子は、戦地を回るうちに敗戦を悟り「非国民」になる。

「滅びるにはこの日本、あまりに美しすぎる」と三木らを前に“非国民の愛国心”を歌う場面は胸を打つ。

物語を作るはずが、国や国民の求めた「物語」に踊らされた作家は戦後、急逝するまでの6年間、「物語」を捨てて庶民の悲しみを書き続けた。井上ひさしは評伝劇を書くのが本当に上手い。舞台を見逃したことが悔やまれる傑作。

十六夜橋

石牟礼道子「十六夜橋」

不知火海のほとりに生きる土建業の一族を描いた小説だが、物語ではなく、土地の記憶のようなものを書いている。石牟礼道子の自伝的作品の一つと言え、この作では志乃として登場する盲目の狂女、祖母おもかさまの見ていた世界をどうにか捉えようとする試みに思える。

文章の視点が定まらないことに由来するのかもしれないが、読んでいるうちに作者の存在が消え、ただそこに人々が存在しているような錯覚に陥る。

『苦海浄土』について自らが述べたように、この作品も著者にとって「自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」なのかもしれない。ただ生きる人々の営みがどんな神話よりも豊かな広がりと存在感を持って迫ってくる。

中上健次の作品を連想するが、中上よりも作者の作為が感じられない。中上作品に出会ったのと同じ高校生くらいの時に読んでみたかった。